また「あぶらんけんそわか」 №757

また「あぶらんけんそわか」

 令和5年12月12日

 もう4,5年前のことですが、このたよりで「あぶらんけんそわか」というお話を申し上げました。神奈川にお住いのEさんは、子どもの頃、お母さんが新しい靴を下ろす時に「あぶらんけんそわか」と唱えながら靴底をやかんの胴に交互に当ててケガなどしないように祈ってくれたというお話でした。

 Eさんはその後結婚してからもお母さんがしていたように「あぶらんけんそわか」のおまじないをして、ご主人から「何してるの」と笑われたそうですが、幼少時の体験はそれほど根強く心に残っているということでありましょう。私もまた未だに新しい履物を下ろす時は必ず玄関を一度出てまた入るという母の教えを守っています。

 実は今日の「あぶらんけんそわか」は上のこととはちょっと異なりますが、小さい頃に母に聞いたことで未だに実践していることがあるのです。油料理の鍋やフライパンを洗う前に先ずその底を冷たい水で流すのです。そのことによって油がよく落ちるかどうかは分かりませんがともあれそのことを続けているのです。

 上のことはある日、母が「油鍋は洗う前に底を水で流すとよく落ちるね~」と言ったことによっています。母がそのことを何で知ったのかは知りません。新聞かラジオで知ったのかも知れませんが、ともあれその時の自分にはそのことが印象深かったことは間違いありません。それで未だに洗う前に水かけをしているのです。

 Eさんの「あぶらんけんそわか」も私の「靴を履いて玄関を出てまた入る」もその底にあるのは祈りです。その靴を履いて出かけて交通事故や悪いことに出逢わないようにという素朴な祈りがあってこそでありましょう。小さい時にその祈りを自然のうちに母に学ぶという有難さがあると思います。


 油鍋の底に先ず水を流すというのは祈りではありません。しかし、小さい時の体験を今なお継続しているというのは幼少時の体験が人間にとって如何に大きな意味を持っているかということであり、それが母親に教えられたものであればその人の母はその人の胸にずっと生き続けているということでありましょう。


幼少時、何を教えられ何を学ぶか。

そのことがその人の一生を貫く


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