善事悪事 No.121

平成23年12月17日

善事悪事




 坐禅会の後にみんなで勉強している「正法眼蔵随聞記」の中に善事悪事(よい行い悪い行い)の話が出て来ました。道元禅師はこの随聞記の中で繰り返し、仏道を学ぶ者が世を捨て家を捨て身を捨て心を捨てることの大切さを話されていますが、それが難しいことは言うまでもありません。だからこそ繰り返してお話しをされたのでありましょう。

 先日読んだ「行者先ず心を調伏しつれば」(巻3-1)で、禅師は「心を調え、その動きを静めてしまえば身を捨てることも世を捨てることもたやすい。しかし、それがなかなかできないから物を言うにも動くにも人目ばかりを考えている。人が悪く思うだろうと考えてしなかったり、よく思われるだろうと思ってするのは世情である」とおっしゃるのです。

 これを読んでまず思ったことは人の心って変わらないということでした。道元禅師がこのお話をされたのは八百年も前のことですが、自己の言動のもとに人目があることは今も全く変わりありませんね。私はむろんみなさんもその通りと頷かれるのではないでしょうか。世情人情というのは時代に無関係なのでしょう。

 道元禅師はその世情人情を認めたうえで「道に入ったばかりの修行者は世情で考えても人情で考えてもよいから悪事はしないようにし、善事を身をもって行なっていくのがよい。それが身も心も捨てることになる」と言われるのです。いつも世情人情に翻弄されている我が身には大変に有難い励ましです。一緒に読んでいた皆さんにとってもこのお示しは同じように救いになる言葉であったと思います。

 しかし、翻って善事、悪事とは何を言うのでしょうか。悪事については十重禁戒にいう殺生、偸盗,邪淫などのように人倫にもとることと見当がつきますが、一方の善事とは何を言うのでしょうか。仏法からすれば坐禅でしょうが、世情人情からすれば「世のため人のため」になる行ないでしょうか。 恐らく世情人情と言われた時は道元禅師も同じようなイメージであったと思います。皆さんと共に小さなことから実践したいと思います。

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