続・さくら証書 No.131

平成24年3月6日

続・さくら証書


 前号、「さくら証書」(№130)で子供は親を選んで生まれてくるという話をしましたが、お読み下さった方には疑問を持たれた方もおいでだろうと思います。 それでは親から虐待されている子供もその親を選んできたのかという疑問です。 親から虐待を受けている子供は虐待されることを望んで生まれて来たのか、ということになりますよね。

 近年、我が国では親による子供の虐待事件が後を絶ちません。暴力を受けたり食べ物を与えられなかったりして幼い命が失われるニュースを聴くたび、その痛ましさに悲しみを覚えてなりませんが、実はつい最近、以前同僚だった先生からこれに類する話を聞きました。親から冷たい仕打ちを受けて心の安定を保てない子供の話です。

 切ないのはその子が母親から「死ね」と言われたことがあるということでした。その子はそのことを半ベソで話したと言いますが、母親の言葉がどんな大きな心の傷になったかは思ってなお余りあります。授業や集団の中でとかくトラブルを起こしがちということも、その遠因は幼児期に母親とのしっかりした愛着関係が出来なかったことにあるのでしょう。

しかし、このような例でもその子はその親を選んで生まれたと言えるのでしょうか。酷なようですが、結論から申し上げれば「その通りです」ということになります。親を選ぶということは自分にとってつらく苦しいことも予定のうちです。その困難や苦しみを克服することを新しい地上生活の課題とするからです。その子は「霊的原像」をそのように作ったのです。

その子がいま熱中しているのは段ボールの家づくりだそうです。その家にはポストまでついているのだそうです。話してくれた先生が言う通り、家は居場所を、ポストは親しい人とのつながりを求める心の表われでしょう。私はそこにその子が意図した地上生活の課題を克服しようとする努力を覚えざるを得ません。その子に「ガンバレー、ガンバレー」と声援を送りたい気持ちで一杯になります。私たちにとってつらく困難な問題こそ自分が克服すべき課題として意図してきたものと言えるでありましょう。

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