メビウスの帯 №132

平成24年3月17日

メビウスの帯


      生と死は メビウスの帯 きっとそう 表裏一体 無限に続く



 今日は彼岸の入り。何時だったかも申し上げましたが、一体彼岸とは何処でしょう。阿弥陀様の浄土は西方十万億土と言われますが、十万億土の彼方なんて想像もつきませんね。ただ、彼岸を悟りの境界と理解するならば、それは距離の問題ではなくなります。一人ひとりの心の問題になりますね。此岸と彼岸は一体のものになります。

 メビウスの帯ってご存知でしょうか。細長い紙の帯(テープ)を一度ねじって両端を糊づけしたものです。ところが、ただそれだけのことで表裏の区別がなくなる不思議な曲面(輪)になるのです。試しにその面の一点からずっと辿って行くと最初の点に戻ります。また、そのテープ幅の中央を切っていくと二つの輪にはならず、一つの大きな輪になるのです。

 このメビウスの帯のことを考えていて気がつきました。生死、つまり生きることと死ぬことはメビウスの帯ではないかと。 生きることの延長上に死があり、死の延長上に生があるに違いありません。葬儀の時の回向の一つに「切に以(おもんみ)れば、生死(しょうじ)交謝(きょうじゃ)し寒暑互いに遷(うつ)る」という言葉がありますが、「生死交謝」とはまさにこのことではないでしょうか。

 朝が来て夜になり季節の移ろいで寒暑が替わるように、私たち人間もメビウスの帯の上で、生まれて生きて死んで生まれることを繰り返しているのでしょう。先ほど申し上げたように、メビウスの帯は帯の中央を切っていくとねじれたままの大きな輪になりますが、それは何と数学で使う無限大記号(∞)なのです。

 初観音の時のたより「年々歳々」(№126)でも申し上げましたが、無常の存在であり無常を生きている私たち人間は、無常であるがゆえに永遠であると思います。そこでは生が此岸でもなく死が彼岸でもないでありましょう。あざなえる縄の如く時に彼岸、また時には此岸。私も苦と楽と悲しみと喜びに七転八倒し続けていくに違いありません。

一苦一楽、相磨練し、練極まりて福を成すものは、その福初めて久し。「菜根譚」

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