臆病のすすめ №150

平成24年7月20日

臆病のすすめ


 おごりたる 我らに神は 死ねといふ 我らは如何に それに応へん

 東電福島第一原発事故について国会の事故調査委員会が報告書を公表しました。報告書は事故を「人災」と結論し、事前に対策を立てる機会が何度もあったのに、それが実行されなかったのは政府、規制当局、事業者の責任感の欠如によるものであり、それら関係者に共通するのはおよそ原子力を扱う者に許されない無知と慢心であると断じました。

 安全神話という苦々しい言葉がありますが、 私たちは架空の安全に騙されていたのです。しかし、その一方には地震や津波による原発破壊の危険を指摘する科学者があり、同時に原子力科学者として「一刻も早く原子力の時代にピリオドをつけ、賢明な終局に英知を結集されることを願ってやまない」と訴え続けて亡くなった高木仁三郎さんもいたのです。

 しかし、私たちはその人たちの言葉、警告を受け入れることが出来ませんでした。安全というおごり、まさかという油断がありました。私たちはいまこの原発事故を神の試練として受け止め、再生に活かしていかなければなりません。おごりと油断を反省し、その反省に基づいた生活と国づくりを求めていかなければなりません。

 実は地震と津波についても同じことが言えます。当初、地震も津波も「未曾有」と言われましたが、津波は経験済みのことだったのです。昨年、ボランティアで岩手県に行った時、私は何度も道路際に立つ津波到達地点標示を見ました。 その中にはまさに標示を境に津波被害が分かれている地域がありました。ここにもおごりと油断があったのです。

 国は電力供給を理由に福井県の大飯原発を再稼働させました。 今なお福島原発の不安を抱えながらです。この決断は正しいでしょうか。 私たちは原発に対しても自然災害に対してももっと臆病であるべきではないでしょうか。私たちは地球という宇宙の星に活かされている存在です。神を恐れず自然の摂理にそむく生き方をすれば、その報いは自分達が受けなければなりません。罪なき子孫を巻き込んでです。

「人間が天の火を盗んだ。その火の近くに生命はない」 ~高木仁三郎~

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