身体さん、有難う №179

平成25年2月3日

身体さん、有難う


         浅春万物萌芽間    角ぐむ葦の浅き春
     耕雲登陟須弥山    雲を耕し登る須弥山
     釣月遊行蒼穹天    月釣り遊ぶ夜の青空
     天行無常永遠閑    天の動きはしづかなり

 今年も星祭りになりました。毎度申し上げていることですが、この星祭りの意味は私たちが人間として生きてあることに感謝し、生かして下さっている大いなる存在に祈りを捧げることにあります。自分の力で生きているのではない、本当は生かされているに過ぎない、という自覚と自分の天命を全うする覚悟を新たにすることに意義があるのです。

 上の詩は私たちを生かしている大いなる存在、老子が「周行して而も(つか)れず」という永遠の宇宙に同化して過ごしたいという思いで作りましたが、その思いで大切なことは、私たち自身もまた宇宙そのものであるという自覚ではないでしょうか。人間自身を「小宇宙」と呼ぶことがありますが、まさにそれです。私たちの体は宇宙の仕組みそのものなのです。

 私たちは日常、心臓がたゆみなく動いていることも肺が呼吸を繰り返していることもほとんど意識しません。ですから、身体に不具合が生じて病気になる、怪我をするという事態になって初めて胃肺心肝腎などの内臓の有難さを思います。身体やその内臓が元気に働いてくれているからこそ命を保っていられるのです。

 手足目耳口、みんなそうです。その働きに変調を覚えてその器官の有難さを痛感します。人間、五十年六十年、七十年八十年と生きていられるのは、この自分の身体が昼夜別なく頑張ってくれているからです。私たちの魂はこの身体があってこそなのです。何と有難いことではないでしょうか。内臓さん有難う。手足目耳口さん有難う。身体さん有難うなのです。
 
 どうぞ皆さん、私たちが生きていられるのはこの身体のお蔭でもあることに思いを致して今年また一年、感謝の日々をお送りください。
 


   やがて死すべきものの、いま命あるはありがたし
              ~法句経~

1 件のコメント:

  1. 「星祭り」、その由来も内容も知らないながら、なんと心惹かれる名まえでしょうか。修行僧に対して食事の作法や口のゆすぎ方にいたるまで、日常生活の細部に徹底的にこだわり規律化したいっぽうで、「釣月耕雲」と天空の日月星辰の大いなる営みにも心を傾け愉しみさえした道元禅師の繊細にして気宇壮大な思想にいかにも相応しい祭りだと想像します。小圷師のやさしく噛み砕いた法話を読みながら、私は私なりにさまざまな想いに駆られました。…若いころ出会ったB・パスカル。「パンセ」の中にこんな一節があったことを思い出しました。「…人間は自分をとりまいている地上のものから、眼を離すがいい。宇宙を照らすための永遠の灯火として置かれているあのかがやかしい光を仰ぎ見るがいい。(中略)人間は無限のうちにおいて何ものであろうか。けれども、人間にいま一つの驚くべき不可思議を見せるために、人間は自分の知っているもののなかで、もっとも微小なものをさがしてくるがいい。たとえば、一匹のダニは、その微小な身体において…(断章72)」私はまた宮澤賢治の「銀河鉄道の夜」という物語に想いを馳せました。主人公の少年は、父が長い航海に出て音信が絶え、母は病の床に伏しているため、生活を支えるために植字工として学校から戻ると働きます。そんな少年がある夜、銀河鉄道に乗って天空を駆け巡り、地上とはまるで違う壮大な視点に立ってさまざまな経験をする、というファンタジーをです。そしてまたJ・S・バッハの「平均律クラヴィーア曲集」という美しい音楽にも想いを馳せました。前奏曲とフーガという形式の小曲が24曲まとまって大きな一つの秩序をもった宇宙を想わせる気宇壮大な大曲をなしています。…これら時代も土地もまるでちがう事物が、ちっぽけな私の中で共鳴し、うつくしく響き合うのでした。そんな想いに耽る私のすぐ傍らで、やさしい微笑みをたたえた小圷師がそっと寄り添ってくださっているように思えてなりません。…「事物は相互に共鳴し合わないなら、それから期待し得るものはなにもない。共鳴し合うときにのみ、心情に触れる音楽となるのだ。(サン=テグジュベリ「城砦」)」小圷師、ありがとうございました。(伊豆の地で愛犬パスカルと暮らす凡人)

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