「妙」を考える №203

「妙」を考える
平成25年6月18日



「妙」を考える
 
 前号(キツネの教え)の続きです。前号で「星の王子さま」の中の「いちばんたいせつなことは、目には見えない」というキツネの言葉が、サン・テグジュペリ自身によって「いちばん本質的なことは、目には見えない」と直されている原稿があることをご紹介しました。申し上げましたように、私はそれを大江健三郎さんのお話で知りました。
 
 その大江さんのお話を聴いた時、直感的に頭に浮かんだことがあります。それが「妙」なのです。ご存知のように、妙という文字は妙覚、妙見、妙心、妙高、妙法等々仏教語の中に大変多く使われていますが、それはこの文字が「きめ細かくて美しい」という意味だけでなく、「はかり知れない不思議な働き」という意味を持っているからでしょう。
 
 私の頭に浮かんだのは、老子の言う「妙」でした。老子はその第一章で言います。「常に欲無きもの、以て其の妙を()、常に欲有るもの、以て其の(きょう)を観る」と。小川環樹さんはこれを、永遠に欲望から解放されているもののみが「妙」をみることができ、決して欲望から解放されていないものは「徼」だけしかみることができない、と訳されています。
 
 問題はこの中の「妙」「徼」ですが、小川さんは妙を「かくされた本質」、徼を「その結果」と解されました。つまりは「かくされた本質は永遠に欲望から解放されているものだけが観ることができる。欲望から解放されていないものはその結果しか観ることができない」ということになります。それでは欲望からの解放とは何を言うのでしょうか。
 
 私は老子の言う「無欲」とキツネが言う「ものごとはね、心で見なくてはよく見えない」という言葉には通底するものがあると思います。キツネが言ういちばんたいせつなこと、本質的なことは心でしか見ることができない、という心は無心すなわち、欲望とは無縁の心を指しているのだろうと思うのです。
 
 前号で住職ネコちゃんに紹介して貰った道元禅師のお歌も、有心の目で見ていたら観ることも聴くことも出来ないお釈迦様であったはずです。虚心無心にして初めて峯の色、渓の響きに隠された本質を見出すことが出来たのです。素直な心の如何に大切なことか。改めてそう思います。




                 音もなく ()もなく 常に天地(あめつち)
                   書かざる経を くりかへしつつ
                      二宮尊徳 





0 件のコメント:

コメントを投稿