平成25年7月1日
「無」を考える
先日、さるお方から般若心経に出てくる「無」はどう理解すべきですか、と尋ねられました。実はこの「無」については、私が教員時代にお世話になったS先生からも今年の年賀状で同じことを尋ねられていたのです。そこで今回は思い切って“私流”の心経解釈を披露して皆さまにも一緒に考えて頂きたいと思います。
般若心経は、観自在菩薩が深波羅密多を行じている時に「五蘊皆空」、つまりこの世に現われているもの一切は空、神仏のみわざである、と照見して一切の苦厄を乗り越えたと言います。色即是空、空即是色とはこの世の存在のすべては、神仏が表わした結果であり、その縁によって生じたものこそ人間であり人間の身体作用であり心の作用であると言うのです。
空とは神仏の世界、絶対者の世界なのです。ですからそこには元々、生滅とか浄不浄とか増減などはありません。当然のことながら、そこに無常の存在である森羅万象はありません。万象の一つである人間もその感受作用も意識作用もありません。それらはすべて神仏という本質から派生した結果に過ぎないからです。
心経が「無…」と言うのは空の世界のことです。空の中には人間という存在もなければその心も迷いもないのだと言うのです。最初に出てくる色受想行識が五蘊。感覚器官としての眼耳鼻舌身意を六根と言います。六根によって認識される色声香味触法を六境と言います。そして、眼界に続く六識がありますが、これらすべて空の中にはないというのです。
心経はさらに続けて人間にまつわる迷い(無明)も老死も苦集滅道(四諦)もないと言います。当然、それらが尽きることもなく、遂には智慧も悟りもないと言い切ります。それらはすべて色の一つである人間のことであり、無常の世界のことだからです。空という絶対の世界は常であり、そこにすべてのものを包含していますが、それが現象化するのは無常の世界なのです。
私たちは生ける人間としてこの世に存在しています。それは空の働きによってです。言わば神仏の分身としてあるのです。私たちの喜怒哀楽は神仏の手の中のこと。それに気づきなさいと言っているのが般若心経ではないでしょうか。
渓声便ち是れ広長舌 山色豈に
清浄身に非ざらんや
~蘇 軾~
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