世に棲む日 №225


世に棲む日

 
 平成25年10月15日

 もう二十数年も前のことです。その頃、私は毎週金曜日の仕事帰りは近くの寺の坐禅会に行くのが習いでした。といっても、その坐禅会はいつも自分一人。誰かと一緒に坐った記憶はありません。子ども坐禅会が終わった後、広い本堂の片隅で一人黙然と坐り、終わってまた一人宵の町あかりを見ながら帰るのが常でした。

 その寺の門前に、同じようなつくりの家が三軒ほどありました。恐らく貸家であったのでしょう。台所と二間ばかりの平屋に猫の額ほどの庭があるだけでしたが、ある時、その一軒に70を越えたであろう男性とそれより幾分若い女性の二人が移って来たのです。越してきた事情は知る由もありませんでしたが、二人はその住まいに心から満足しているようでした。

 旦那とおぼしき男性は小柄でこまめな人でした。その僅かばかりの庭に草花を植え、道からの入口には小さな枝折戸をつくりました。それを見ながら嬉しそうに話しかける奥さん。私はその二人に一種羨ましい微笑ましさを覚えると同時に、二人にとっては、そこが安住の地、終の住処なのだろうと思われてなりませんでした。

 私は今も時々その二人のことを思い出すのです。二十数年も前ですから、二人は恐らくもう存命ではありますまい。週に一度その姿を見ても、話すことは殆どなかったのでしたが、いま自分がその時の二人と同じ程の歳になって「あの二人はどんな人生を歩んだのだろう。どんな最期を迎えたのだろう」と思い出されるのです。
 
 ひとつには、私にはどうしても二人が訳ありのように思えてならなかったからです。子どもはいなかったのか、いても来ることはなかったのか、その家に子どもらしき人が来ているのを見たことはありませんでした。訳あり、は私の勝手な想像に過ぎませんが、ともあれ、二人はあの家を終の住処として最後の日々を送ったのでありましょう。



 人は過ごす一年が短く感じられるようになると、今度は一日一日が愛おしく大事に思われます。同時に過ぎし日が懐かしく思い出されます。私はこの人生晩年の日々こそ大切ではないかと思います。世に棲む最後の日々は、己が来し方を振り返り観照する日々のように思います。皆様もどうぞお大切に。


           天国はきっとこうだね爽やかな
       秋風そよぐ朝の青空
                         ~洋仙~


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