続・ツリフネソウ №226

続・ツリフネソウ №226
平成25年10月17日


続・ツリフネソウ

々と空にラッパが鳴るような澄んで明るい秋になったね
     過ぎし日のただ懐かしく思い出づ秋の陽ざしの燦々の午後
 
 前々号に永平寺上山の時に見た「ツリフネソウ」の思い出を書きましたが、何とその思い出の107日に同じ道を辿って来ました。この度は徒歩ではなく車でしたが、まさか11年目の同月同日に同じ道を辿るとは……。その日も空は明るく澄んで、野原には午後の陽光が燦々と降り注いでいました。上の二首はそれを詠みました。
 
 私が同じ道を辿ったのは高林寺さまの永平寺団体参拝に参加するためだったのです。その日、まず師匠の寺に挨拶に回ったのですが、ちょうど托鉢から戻った兄弟子の博法さんが、それなら永平寺まで送ってあげようと言ってくれたのです。ひょっとしたら、またツリフネソウを見ることが出来るかも知れません。私は有難くお願いしたのでした。
 
 道々、私は車窓に目を凝らしました。峠道はいまは廃道になっていて、この度はトンネルをくぐったのですが、その出口が峠道に近いのです。しかし、ツリフネソウを見つけることは出来ませんでした。見えたのはセイタカアワダチソウばかり。「安楽」という花言葉を持ったあの可憐な花は獰猛な帰化植物に駆逐されてしまったのかという思いでした。
 
 何時だったかも書きましたが、人の記憶は歳月とともに美化されるのが常でありましょう。私のツリフネソウの記憶もそうです。不安な心に刻まれたツリフネソウの優しい姿が、私には美しく懐かしい花になりました。心の花になったのです。今回はその花を見ることはできませんでした。でも、それでよかったと思うのです。

 記憶の美化というのは、人に与えられた癒しではないでしょうか。つらい思い出も悲しい思い出も時と共に薄れ、いつかそれを肯定し容認できるようになるのは、記憶の美化という癒しがあるからだと思います。嬉しい思い出は一層嬉しく、悲しい思い出もやがては薄れていく。だからこそ人は生きられる。改めてそう思ったことでした。



        花が 咲いた 秋の日の
       こころのなかに 花がさいた
           八木重吉「秋の日のこころ」









 




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