日面仏・月面仏 №231


日面仏・月面仏

平成25年11月12日

 つい先達てのことでした。ある方の病気平癒を依頼されたのです。その方はすでに余命僅かとの診断を受けて入院中とのことですが、周りの方にすれば、それこそ藁にも縋る思いであったのでしょう。縁故の方が御祈祷にお出でになったのです。是非もありません。私はご依頼の通り病気平癒を祈願しました。

 しかしその翌日、その方は亡くなってしまいました。ご遺族にとっては無念この上なしであったと思います。が、それは祈願した私にとっても同じでした。皮相的に言えば、祈願の甲斐がなかったことになります。 折角、平癒を祈ったのにその願いが叶わなかったということになります。これをどう考えればよいのでしょうか。

もちろん、いくら観音様でも叶えることが難しいものがあります。その一つが人間の寿命かも知れません。そう思っている時に宗門の大刹、神奈川県にある大雄山最乗寺の山主様、石附周行老師が機関誌「大雄」に書かれた「日面仏(にちめんぶつ)月面仏(がちめんぶつ)」を読むことが出来ました。「日面仏・月面仏」とは長命の人もあれば短命の人もある、という意味だそうです。

この言葉は中国唐代の禅僧、馬祖道一の言葉だそうです。馬祖まさに臨終の折、見舞いに訪れた院主の伺いに一言「日面仏・月面仏」と答えたというのです。石附老師は、この言葉を「寿命である一日一日を存分に生きぬくことである。馬祖大師は仏道者としての一瞬一瞬の命を示されたのである」と説かれます。

これを読んで私はまさに疑問が氷解する思いでした。上のお方の病気平癒の願いは叶いませんでしたが、祈りは達せられたと理解できました。観音様のお加護を頂き、精一杯の命を全うされたと了解できたのです。石附老師のお話を読んで私は御祈祷が間に合ったのだと確信しました。その方は存分の一生を生き得たと思ったのです。

正法眼蔵隋聞記に「人人(にんにん)食分(じきぶん)あり、命分(みょうぶん)あり。非分の食命を求むとも(きた)るべからず」という言葉があります。一人ひとりに与えられた定命を変えることは出来ないかも知れません。とすれば、その与えられた命を存分に生きぬくことこそが私たち人間の使命であると思います。それが悔いのない人生なのでありましょう。

  其中一日の行持を行取せば
  一生の百歳を行取するのみに非ず、
  百歳の佗生をも度取すべきなり
              ~「修証義第五章」~


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