いてふまんだら №232


いてふまんだら

平成25年11月16日

   まんだらのいてふもみじにそよぐ風極楽浄土はかくてありなむ
   葉一枚一枚づつがほとけなりいてふもみじに心癒しぬ

 秋深くなってまいりましたね。寺のイチョウもきれいに黄葉しました。毎年、この時期になるとイチョウが色づくさまを見ながら思うことがあるのです。それはイチョウの黄葉がまさにまんだら(曼荼羅)。諸仏、諸菩薩の集まった姿を見せてくれているということです。絵図で表わされる曼荼羅を立体化して見せてくれていると思うのです。

 イチョウの黄葉は部分的に始まります。日当たりのよいところが、まずうっすら黄ばみます。そしてそれが段々と色濃く増えて行ってやがて樹全体が真っ黄色になるのです。私がイチョウを曼荼羅と思うのは、あちこち部分的に黄葉している時です。その時はまさにまだら模様、それこそがまんだらだと思うのです。

 イチョウは四方八方に枝を伸ばしています。その枝は梢近くもあれば根元に近いものもあります。東西南北、(ごん)(そん)乾坤(けんこん)、そして上下、それが十方の世界です。枝は十方に広がり、その枝には無数の葉が付いています。その葉一枚一枚が仏、私たち菩薩を表わしているのです。位置の違いは菩薩としての機根の違いと見ることもできましょう。

 私たち人間の世界を表わせば、この黄葉するイチョウの樹ではないでしょうか。無数の葉はすべて一本の幹、命の海につながっているのです。春になれば若葉が芽吹き、春の陽ざしを頂き、夏の暑さに耐えて、その数えきれない葉が葉の役割を果たし、秋見事にその最後を輝かせて散っていく。そこに命の循環を思わざるを得ません。

 人はみな菩薩です。修行する存在です。しかし、一言に菩薩と言ってもその差は万別です。上と下では天地の開きがありましょう。観世音菩薩、地蔵菩薩のように仏さま同然の菩薩もあれば畜生にも劣る菩薩もあります。葉の位置の違いは、私たちの菩薩としての機根の差を示しているのかと思ったのはそのことです。

 人間として存在している私たちはみな修行者です。一生が修行です。その一生をどのように過ごすか、それが一人ひとりの課題なのです。


  金色のちひさき鳥のかたちして銀杏ちるなり夕日の岡に
                ~与謝野晶子~

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