浄土はどこに №233


浄土はどこに

平成25年11月17日

     紅葉錦秋是浄土     もみじの秋は浄土なり
     清浄一葉皆明珠     清き葉すべてが仏なり
     夜来風雨散万葉     無常の風に散りゆきて
     寂静寒林復浄土     寂たる庭も浄土なり

 前号「いてふまんだら」に書きましたが、イチョウの黄葉には諸仏諸菩薩の世界、曼荼羅を見る思いがします。寺のイチョウの真下には真っ赤に色づく紅葉がありますが、その二つの鮮やかな色が醸し出す景色を見ていると「これこそが浄土だ」という思いがします。浄土というのは定めてこんな景色なのだろうと思われるのです。

 しかし、その錦秋も一時です。諸仏諸菩薩を思わせた無数の葉もやがて一葉一葉と散り始めます。また時には野分(のわき)の風にたちまちに葉を散り尽くすこともありましょう。それが無常であります。後に残るのは初冬の空に佇立する裸になった木々ばかり。蕭条たる寂しささえ思わせるのが冬木立ちの風景です。

 イチョウやモミジが黄や紅に色づいた風景は、まさに錦のごとくに美しく、人は誰しもそこに極楽世界、浄土を思うでありましょう。しかし、ひとたび風に葉を散らした寒林の景色はどうでしょう。多くの人はそこにまずもの淋しさを覚えるのが先ではないでしょうか。そこに極楽を見ることは可能でしょうか。
  
 私は思うのです。錦秋のモミジの風景はもちろん浄土。そして、そのモミジが終わって裸になった寒林もまた極楽浄土、と。モミジの風景にはモミジの風景の美しさがあります。同じように葉を落ち尽くして裸になった樹にもまた美しさがあります。その美しさはモミジの美しさに劣りません。それも生きている精一杯の姿だからです。


 生きているものは生きている限り輝いている。人は年輪を重ねた時には年輪の美しさがある。精一杯生きることが人の真実。精一杯生きることが木々の真実。その真実が現れているところが浄土ではないでしょうか。
 

   「徧界(へんかい)(かつ)(かく)さず」 
     (あらゆるものが真実を現わしている)
               ~正法眼蔵・佛性~
 

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