続・匙箸袋 №249

続・匙箸袋 №249
平成26年 3月 1日


続・()(じょ)(たい)

 先日のたより「ホンモノどころか」(№246)で匙箸袋のことを書きました。もちろん、特殊なものですから殆どの人は目にしたことがないと思い、二月の観音様の会の折、その実物を見て頂きました。そういえば、最近あまり目にしませんが個人用の箸箱がありますね。匙箸袋って要するに箸箱、布製の箸入れなのです。

 私が何故その匙箸袋をご披露に及んだかと言えば、それを兄弟子のS師に頂いたからです。たよりにも書きましたが、私はいま匙箸袋を使っていません。ということは、応量器(個人持ちの漆器)で食事をしていないということです。S師に年賀として匙箸袋と膝かけを頂いた時、私は内心忸怩たるものがありました。初心忘失を痛感したのです。

 匙箸袋を頂いたまま、それを使うことがなければ、私は修行僧としての原点を二重に失うことになります。匙箸袋を皆さんに披露し、その由来を申し上げる以上、たとえ一回でもその匙箸袋を使わなければ許されません。いや出来れば、この匙箸袋を私の日常生活の友にしたい。私は心にそう思いました。

 その日すぐ、私は応量器のうちで最も大きい()(はつ)と箸と匙を取り出しました。頭鉢はご飯、お粥を入れる器です。修行道場では朝はお粥と決まっていて、ゴマ塩、沢庵の他は汁もありませんから頭鉢と匙、箸があれば、略式ながら粥を頂くことが可能です。準備をしながら師匠は毎日応量器を使っていることに敬服の思いでした。

 翌朝、予定通り、私は粥をつくり頭鉢に盛りました。匙箸袋から箸と匙を出して粥を頂きました。漆黒の器の中に立ち上る湯気が粥の温もりを伝え、そこに喩えようのない豊かさ、有難さを感じます。普通に頂いていては感じることの出来ない豊かな思いです。私は久しく忘れていた粥の美味しさを味わいました。

 粥一杯の有難さ美味しさ。 以前体験していながら忘れていたそのことに私はS師から頂いた匙箸袋によって再び気づくことが出来ました。私たちに大切なことは、放逸とマンネリの中に埋没する初心の大事。そして継続の大事。私は頂いた匙箸袋によって改めてその大切さを教えられました。

  

              天行は健やかなり、君子以て
                   自ら(つと)めて()まず
                        易 経


 







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