№250  どこかで春が

かんのんだより №250
平成26年 3月 3日



どこかで春が 

   何処(どこ)かで「春」が  生れてる  何処かで水が ながれ出す
   何処かで雲雀が 啼いている  何処かで芽の出る 音がする
   山の三月 東風(こち)吹いて  何処かで「春」が うまれてる

 
 早春の歌と言えば、皆さま「早春賦」がまず浮かぶと思いますが、上の歌、作詞百田宗治、作曲草川 信の「何処かで春が」もなじみの深い歌ですね。この歌は1932(大正12)年に発表されていますから、すでに90年以上も前のこと。歌い継がれる歌というのは、いつまでもその新鮮さを失わないものだと思います。
 
 ところで、上の歌詞でお分かりのように、何処かで、の“春”が二か所ともカギ括弧になっていますね。発表された詩がそうなっているのです。百田宗治さんは、なぜ春を括弧づきにしたのか。それには当然理由があるに違いありません。普通に考えれば、春が来た喜びを強調したのだろうと思います。
 
 しかし、音楽家の池田小百合さんは、この括弧は見えない春、まだ水も流れ出ず雲雀も鳴いていない想像の中の春を表わしていると言われます。なるほど、と思いました。池田さんがおっしゃるように、詩人の直感がまだ見えない春を感じ取ってつくられたのがこの歌かも知れません。芽の出る音、という表現はその象徴でありましょう。
 
 思えば、物ごとは見えないうちに変化をするのではないでしょうか。季節の移ろいもそうです。二十四節気の「立春」はまだ冬さなかです。しかし、その冬さなかに春の兆しが生まれているというのが真実なのです。物ごとも世の中も見えないうちに変化する。見えない中に真実がある。私たちはそれに気づかないだけなのです。

 これは余談になりますが、歌詞のうちの「東風」は、昭和30年の教科書で「そよかぜ」とされています。これは言葉を解さぬ者の乱暴な仕業に外なりません。そういえば、「早春賦」三番の「聞けば()かるる胸の思いを」を「(いそ)がる」としているものもあるようですがそれも同じ。許されぬ改悪です。



     夕やみに 水仙白く 浮かび()
         庭もなまめく 三月となる











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