身を忘れて №257

身を忘れて №257
平成26年 4月10日


身を忘れて 

 先日の坐禅会後の隋聞記(正法眼蔵隋聞記)講読のなかに、こんな話が出てきました。建仁寺の僧正、栄西禅師の伝記は顕兼(はるかぬ)中納言入道(源兼綱)が書いたのだが、顕兼中納言は始め「それは儒者に書かせるべきだ。儒者が書けば、書いたものに間違いがない」と言って書くことを辞退した、という話です。
 
 儒者が書いたものは何故間違いがないか。中納言は「儒者はもともと身を忘れて、幼いころから成人するまで学問を本務としている。しかし、普通の人は片手間に学問するから詩や文章の書き方に間違いが出てきてしまう」と言われたそうです。道元禅師はこの話をあげて、修行者たるものは一層「身を忘れて」学ぶことが大切だとおっしゃるのです。
 
 この話、儒者が「身を忘れて、学問を、本務とする」ということで、ふと思うことがありました。養護学校(支援学校)の生徒のことです。養護学校の生徒の中には時々、周囲が驚くような能力を発揮する子がいます。たとえば何年ものカレンダーを覚えていて、日にちを言えば即座に曜日を答えられたり、有名な建物の外観を何も見ずに正しく描けたりする子がいるのです。
 
 何故そのようなことができるのか。それはひとえにカレンダーや特定の建物に対するこだわり、異常なほどの関心です。その「身を忘れた」努力が、遂にはカレンダーの丸暗記になったり建物の外観を写真のように記憶したりすることになっているのです。これは学問ではありませんが対象に没頭するという点では同じではないでしょうか。
 
 最近、仕事に対するプロ意識の欠如がよく言われるようになりました。これは自らの仕事に対する「身を忘れた本務意識」が希薄化しているからでしょう。自分がいま携わっている仕事に対して知識および経験を深め、技量を高めていくことが身を忘れた努力であるとすれば、これこそいま私たちに求められていることではないかと思います。
 
 道元禅師はこのお話の最後で「道心というのは天台の一念三千の教義などを学んで心に入れて持っているのをいうのである。なんとなく笠を首にかけて、僧の格好をしてうろつき回るのは天狗に惑わされた行というのだ」と言われます。多分、これが禅師の言いかったこと。実に耳が痛い思いでした。


 
 

     まこと 鞭をうけたる 良き馬のごとく
     なんじら また 専心努力(ぬりき)せよ
                    法句経














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