平成26年 4月 8日
自灯明・法灯明
是即真人而仏生 我ら仏の証なり
深慮唯我独尊教 仏陀の教へ心新たに
精進増加法灯明 仏の道に我往かむ
自灯明、法灯明という言葉は、お釈迦様の涅槃の教えに由来しています。涅槃に入ろうとするお釈迦さまは、弟子アーナンダに改めて無常のことわりを諭し、我が亡き後は「自らを島とし真理(法)を島として」精進するよう教えられました。「島」とは「灯明」。真実である自分、真理である法をよりどころにせよ、と言われたのです。
私はこの言葉は、お釈迦さまが誕生の時に言われた「唯我独尊」と同じだと思います。お釈迦様は80年の生涯の「唯我独尊」を「自灯明・法灯明」という言葉で完結されたのです。唯我独尊とは独りよがりではありません。私たちみんなが仏という尊い存在であると言っているのです。気づくか信じるかは別にして、人はみな仏なのです。
しかし、その仏の現われ方はさまざまです。お釈迦さまが「自らを灯りとし法を灯りとして精進しなさい」と言われたのは、精進なくして自らの仏が現われることはないからです。「玉磨かざれば光なし」です。私たちは原石なのです。宝石を内在させていてもそれを覆っている石を取り除かなければ宝石は現われません。
私は人の一生は、自分という原石を磨くことだと思います。しかし、この作業は容易ではありません。磨くことを決意しても、やがてその決意が薄れ、時には一休みどころか全く逆の方向に向かったりしかねません。それゆえに生死の繰り返しが必要になるのです。何十回、何百回もの人生の繰り返しを必要とする理由はそこにあります。
人の一生は常に発展途上です。まず完了することはありません。歴史上、完了したのはお釈迦様だけです。というのもお釈迦様はもともと完了した如来様だったからです。私たちは今回の人生も悪戦苦闘しなければなりません。苦闘が大切なのです。安穏だけでは進歩はありません。お釈迦様はそのことをお教えなのです。
おのれこそ おのれのよるべと
言ふ経の 言はむ心は 人みな仏
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