旅・遍路考 №269

旅・遍路考 №269
平成26年6月13日


旅・遍路考
 
 前号(№268)で先達てのお遍路が「お蔭」を実感する感銘深い旅であったと申し上げましたが、実はもう一つ、今回のお遍路でしみじみさせられたことがありました。それは遍路あるいは旅というものの意味、遍路とは何か、旅とは何かという原点的な思いです。人にとって遍路や旅はどんな意味を持っているのかという思いです。
 
 普通、旅と言えば観光であれ用事であれ、何かの目的のために家を離れてよそに行くことをいいます。昔は必ずしも遠い土地に行くことに限らず、住まいを離れることをすべて「たび」と言ったと言います。このことは旅の出発点と帰着点が家(住まい)であるということです。また帰ってくることが前提であるのが旅ということです。
 
 現代のお遍路もほとんどが上に述べた「旅」でありましょう。しかし、ごくまれにそうではないお遍路があります。ごく少数ですがあるのです。では、その人たちの旅とは何か、です。そういう旅も四国八十八か所を回る限りはお遍路に間違いありませんが、札所を回ることがなく帰るところもないとなれば、それは「流浪」ということでしょう。
 
 歩き遍路をしていると、同じように歩いている人に会うことがあります。その人たちも己が人生の思いを胸に秘めて歩いているのでしょうが、今回も内子の山中の無料遍路宿で、やはり歩いているという男性に会いました。50代後半か60代か、一人で歩いていると言います。訳ありの風情に話を聴いて考えさせられました。
 
 その男性は12,3年前に一年半かけてお遍路何周かした後、道中知りあったある男の家に住むことになったのだそうです。しかし、住まいの提供と引き換えに男性に生活保護を受けさせ、それを搾取する男の魂胆に耐えきれなくなって、今年一月、8年いたその男の家を出て再びお遍路を始めたというのでした。
 
 どう考えてもその男性に帰る家はなさそうです。家族や兄弟がいるのかどうか。たとえいても頼れる関係ではないのでしょう。天涯孤独。男性はこれからずっと流浪に近い遍路を続けていくのでしょうか。思えば山頭火も同じような境遇であったと思いますが、山頭火は孤独ではなかったはず。しみじみさせられる話でした。


 


              「人生即遍路」
                  種田山頭火











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