上関へ行く №280

平成26年8月17日

上関へ行く

 
 先日、「上関(かみのせき)」に行って来ました。山口県の方なら下関に対して上関があることは、先刻承知のことですが、他に「中関(なかのせき)」というところもあります。これらは往時、船の荷を検査する番所が置かれていたところで、都に近い方から上関、中関、下関と呼ばれていたのです。「関」は関所の意味だったのですね。

 のっけから余談になってしまいましたが、実は上関は、山口県民のみならず関心ある人の耳目を()いているところ。県東部、瀬戸内海に面する風光明媚なこの町に中国電力が原発を作ろうとしているのです。当然のことながら建設には反対する人が多く、計画が一進一退している時にあの東日本大震災とその津波による福島の原発事故が起きたのでした。

 しかし、信じられぬことに、中国電力はまだ原発建設を断念してはいません。政府が再稼働を意図していることを当てにしているのでしょうが、ともに気は確かか、と言うべきでしょう。私たちは福島の事故で原発の安全神話が嘘であったことが知りました。国会の事故調査委員会では、事故は東電がなすべき対策をしなかった人災であるとさえ断言されたのです。

 事故の後、多くの人が自殺に追いやられ、避難地域の町は再び人が住めるようになるかさえ分かっていません。地域共同体が失われ、心身を病む人は増えるばかり。これから先何十年にも及ぶ廃炉への対策や補償の費用等は一企業の負担し得るところではなく、原発はその安全性は無論、強調されていた経済性も破綻したというのが真実なのです。

 実は私が上関に行ったのは、日本山妙法寺の「命の行進」の人たちの祈りが上関でされると聴いたからです。その方々は最終目的地、86日の広島の平和記念公園式典に向けて、徒歩で全国の原発をめぐりながら、その日、この建設予定地の浜辺で脱原発の祈りをされたのです。十人足らずの祈りの会ではありましたが、その気迫には息を飲むものがありました。

 前号で平和のことを書きましたが、いま私たちは平和のことも、これからの生活のことも根底から考え直さなければならない時を迎えていると思います。これからの若い人たちに平和な世界を引き継ぐことが出来るのか、この地球を人間の破壊から救うことができのか。それは私たち一人ひとりに懸かっているのです。

  世界ぜんたい幸福にならないうちは
  個人の幸福はあり得ない。
          ~宮澤賢治~


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