人生は祈り №306

人生は祈り

平成27年2月4日



 節分の頃になると、決まったように思い出すことがあります。子どもの頃、節分の日にイワシの頭を刺したヒイラギの小枝を戸口に挿して回った思い出です。それから茫々60年。夢のように遥か遠くになった思い出を辿ると、今更ながら過ぎた時間の長さが思われます。この時間の中で日本は、そして自分はどう変わったでしょうか。

 鰯の頭も信心から、ということわざ通り、焼いたイワシの匂いを鬼が嫌うというのも、柊の葉の棘が鬼の眼を突くというのも信心による願いです。馬鹿なことを!と一笑に付してしまえばそれきりのことですが、そこには現代の私たちが失ってしまった素朴な願い、無邪気な祈りがあることを思わない訳にはいきません。

 往時、私たちの祖先は自然の中で自然とともに暮らしていました。自然の中で暮らすというのは自然の恵みを頂いて生きるということです。米をつくるのも野菜を育てるのも自然の力、自然の恵みです。米が豊かに実り野菜が大きく育つのは自然のお蔭です。祖先の人々は自然の恵みを肌身に感じて生きていたのです。

 反対に、気候が乱れて長雨や干ばつが続けば一気に凶作になります。江戸時代末、浅間山の噴火で起きた冷害による天明の飢饉等、わが国でも歴史上何回かの飢饉がありましたが、それに対して人々はなすすべがありませんでした。地に伏し天を仰いで祈るしかなかったのです。自然のなかで生きるというのはそういうことでした。

 焼いたイワシの頭をヒイラギに付けて戸口に挿すという行為は、現代人から見れば他愛もない迷信に見えるかも知れません。しかし、そこには目に見えない大きな力、自然と言ってもよい、神と言ってもよい、仏と言ってもよい、大いなる存在に対する敬虔な祈りの気持ちが込められていることを見逃すことは出来ません。

 私は人生は祈りだと思います。私たちは祖先が抱き続けて来た素直で敬虔な祈りの行事を忘れてしまいました。しかし、私たちが祈りの存在であることは変わりません。人間を生かしている大いなる存在に対する祈りの気持ちをいま一度新たにし、新しい祈りの形を創っていきたいと思います。
 

 
 
      古りし宿 柊挿すを わすれざり
              ~水原秋桜子~


0 件のコメント:

コメントを投稿