「我見」考 №308


「我見」考

平成27年2月17日 

 先日、坐禅会の後の隋聞記(正法眼蔵随聞記)講読に「我見」の話が出てきました(巻5-2)。ある日、道元禅師が「学人第一の用心は、先ヅ我見を離ルベシ。我見ヲ離るとは、この身を執スベカラず」(仏道を学ぶ者の第一の注意は、我見を離れることであり、それはこの身に執着してはならないということだ)と言われたというのです。

「我見」とは普通、自分だけの偏った見方、考えを言いますが、自分の見解という意味では禅師は「自解(じげ)」という言葉を使っておられますから、ここでは我見の本来の意味、「我(自我)が存在するという誤った見解」を指していることになりますが、それを離れるというのは「この身に執着してはならない」ことだと言われる意味は難解です。

この身、というのはむろん、肉身のことでありましょう。人間というのは肉体を持った存在です。人間界に生まれるというのは魂が肉身を宿として生きるということです。人間の感覚と認識は肉身の感覚器官、五官(眼耳鼻舌身)に知覚器官である「意」を加えた六境によって得られます。肉身がなければ人間ではありません。

私たちが日常感じている善悪、良否、好悪、美醜、快不快、等はみんな感覚・知覚器官のなせる業です。美味しいまずい、綺麗きたない、好き嫌い、良い悪い、等はみな人それぞれの感覚知覚に基づいています。それが認識の基礎になっているのですから、その大本である肉身に執着するなとはどういう意味なのでしょうか。

考えあぐねているうち、ふと遺教経の中にこんな言葉があるのを思い出しました。「我今滅を得ること悪病を除くが如し、此は是、まさに捨つべき罪悪の物、仮に(なづ)けて身と為す」(今私は入滅しようとしているが、これは例えれば悪病を取り除くようなものである。まさに捨て去るべき罪悪の物、これを名付けて身体と言うのである)と。

人間にとって身体はなくてはならぬものではあるが永遠のものではない。その肉身に執着していては真実の教えを得ることは出来ない。肉身の執着から離れた時初めて人間という存在の真実を知ることが出来る。禅師の言われることはそういうことなのでしょうか。参究は未だしです。
 

    この身、風前の灯のごとし、
       なんぞ執着(しゅうじゃく)あらん。
               ~源信「空観」~

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