無情説法 №390

平成28年8月10日

無情説法


       炎天蝶飛示覚人      真夏の空をゆく鳥も
       碧空鳥去顕正真      炎天さなか舞う蝶も
       万物各々有本覚      それがそのまま悟りなり
       人応須生死為純      人は生死でそれを知る

 毎年、真夏を迎えると炎天に飛ぶ蝶に感心させられます。か弱い蝶がどうして酷暑の中を悠々と飛べるのかと。ひょっとして蝶は異次元を飛んでいるのではないかとさえ思います。私たちと同じように熱を感じていたらとてもあのように優雅に飛ぶことは出来ないのではないでしょうか。私はそれが不思議でなりません。

 上の詩はそんなことを思いながら作りました。飛ぶ鳥、舞う蝶だけではありません。鳴くセミも咲く花も炎天、酷暑をいとわずに飛んで鳴いて咲いています。ただひたすらに生きています。生物の宿命は子孫を残すこと。その使命を果たすために必死に生きています。いや、必死と言う思いすらなくひたすらに生きています。

 それはそのままが宇宙の真理です。宇宙の真理とは悟りです。ただひたすらに生きている蝶、飛ぶ鳥、咲く花、鳴くセミ。これらすべてが宇宙の真理そのもの、悟りの姿そのものを表わしています。そこに一片のうそ偽りもごまかしもありません。生きるということ、真実に生きるということは宇宙の真理を生きるということなのです。

 標題の「無説法」とはそのことです。無とは山川草木、日月星辰のように文字通りを持たないもの。トリやムシもそれに当たるでありましょう。私たちは普段これら無の存在に対して意識や注意を向けることはありません。たとえ見てもそこに不思議を感じたり感銘を覚えたりすることはまれでありましょう。

 しかし、実はこの無の中に宇宙の真理がありありと示されているのです。それに気づかないのは私たちにその注意力がないからに過ぎません。一本の草、一陣の風、日の光、月明かり。私たちが普段何の不思議も感慨も覚えない日常の中に実は真実がありありと 示されているのです。全く隠されることもなく。

 

峯の色渓の響きもみなながら
  わが釈迦牟尼の声と姿と
        ~道元禅師~

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