戦場の祈り
先日久しぶりに神奈川に“里帰り”してきました。この二三年は用事がなければ家に帰ることはしていません。それは一つには寺を留守にすることが難しくなったためですが、もう一つは自分が観音さまから離れることに申し訳なさを覚えるようになったからでもあります。これはお詣り下さる皆さまのお蔭でもありましょう。
とすれば、用事がすんで寺に帰る日は喜びそのものの筈ですが、気持ちは必ずしもそれだけではありません。正直に言えば苦痛に近い思いも否めないのです。寺はいわゆる“家庭”ではありません。寺は本来道場です。寺に戻るということは道場に戻るということであり、道場の日常に戻ることに億劫を覚えるのも事実なのです。
私にとって寺は「祈りの戦場」です。お詣りの人の中には喜びの人がいる半面、苦しむ人悲しむ人がいます。その人たちに代わって観音さまに祈ることは真剣が求められます。それと同時に自分自身が修行者としての日常を送ることが求められます。私にとってそれは戦場と同じです。その戦場に戻るには気持ちの踏ん切りがいるのです。
しかし、こうも思いました。寺が「祈りの戦場」と申し上げましたが、実を申せば、その戦場は幸せの戦場です。本当の戦場にいる人からみれば戦場なん言い方がおこがましい。私の日常は幸せそのものではないかと言われればその通りなのです。本当に大変なのは「戦場の祈り」をしている人たちなのです。
前号「追悼 永六輔さん」で、永さんが作詞した「見上げてごらん夜の星を」が、平和を願う人々の歌になることを望みました。この歌を聴く時、私は戦火におびえる幼い子どもを必死に抱き締めるお母さんの姿が思われてなりません。世界にはまだ戦争の恐怖におびえ、戦場で平和を祈る母子が沢山いるのです。
見上げてごらん 夜の星を
ボクらのように 名もない星が
ささやかな幸せを 祈ってる
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