”日本社会”考№393

平成28年8月26日
"日本社会”考 №393



“日本社会”考





 

 先月26日、神奈川県相模原市の障害者施設で起きた悲惨な事件から一カ月、関係者にとってはまだ悲しみと怒りの毎日だと思います。事件は施設の警備や態勢、防御策、職員の採用と資質など多くの問題を露わにしました。その中でも施設職員であった男が何故あのような犯行に及んだのか、それが一番の問題ではないでしょうか。

 犯人の男は事件前、措置入院されていたことから精神障害との関連も言われています。犯人自身、自分の犯行は精神障害者の犯罪として無罪になると言っているようですが、私は犯人の判断は異常であっても精神は異常ではないと思います。実は今回の事件の怖さ、最も考えるべき点はそこにあると思えてなりません。

 その怖さというのは、犯人の背景にある日本社会が抱える怖さ、現代日本社会の暗部だと思うからです。日本の社会はいま産業のみならず教育までもが効率化、能率化に覆われています。学校では道徳までもが教科化されることになりました。これは心の領域までもが感じ取るのではなく知識化されるということに他なりません。

 そこで人はどうなるのか。端的にいえばいえばロボット化です。日本社会は感情に生きる人間ではなく与えられた仕事を従順にこなす人間の養成に向かっているのではないでしょうか。そしてこの過程で起きるのが、仕事が出来ない人間は抹殺されるべきだという誤った人間理解、つまりは今回の事件のようなヘイトクライム(憎悪犯罪)ではないでしょうか。

 今回の事件について作家の辺見庸さん(命の選別という曠野・8/12神奈川新聞)、と北大教授の石井哲也さん(命の選別憂える・8/13毎日新聞)が、ともに「いのちの選別」という観点で寄稿しておられますが、お二人に共通しているのは犯人の誤った判断の背後には私たちの、そして日本社会が抱えているものが存在しているという認識です。

 辺見さんは「ひょっとしたらナチズムや日本軍国主義の”根”が往時とすっかりよそおいをかえて、いま息を吹き返してはいまいか」と言い、石井さんは私たちに「依然として命を功利的に見る傾向があるのではないか」と言われます。相模原事件で私たちが考えるべきはお二人の指摘するところではないでしょうか。


吹き出し: 角を丸めた四角形: 生きる術さえない徹底的な弱者こそがかえって、もっとも「生きるに値する存在」であるかも知れない。  辺見 庸

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