平成29年8月8日
皆さんは田上菊舎という俳人をご存知でしょうか。江戸末期、宝暦3(1753)年、現在の下関市豊北町田耕に生まれた女性の俳人です。恥ずかしながら私は全く知りませんでした。尼僧のこのお方、何と一人で諸国行脚をしながら俳諧はむろん、行く先々で和歌、漢詩、茶道、弾琴などを学んだという誠に向学心旺盛な文人だったそうです。
私がその存在を知ったのは、先月一杯、下関市立歴史博物館で「女流文人 田上菊舎―江戸の女子旅―」という企画展があったからです。拝見して驚きました。男でさえ困難が多かった江戸時代に旅する俳人として北は山形から松島、南は長崎、熊本まで行脚しながら俳諧の道を生きた尼僧があったことに感銘しかありませんでした。
菊舎、本名「道」は24歳の時、夫に死に別れて後、かねて親しんでいた俳諧の道に生きることを決意して萩の清光寺で出家以後、諸国行脚しながら俳諧だけでなく、文人としての教養を身につけて行ったと言いますが、その一つに「七絃琴」(全長120㎝前後の中国伝統楽器)がありました。菊舎は40歳の時に江戸で七絃琴を贈られたと言います。
企画展の中で私がひと際関心を持ったのはこの七絃琴に言及した「往来書添」でした。これは往来手形と一緒に持っていた個人的なメモですが、そこに自身万一の時は、携えている七絃琴を大阪にいる弟子、馬場栄子に送って頂きたいこと、七絃琴の中に納めている「七難消滅の誦文」を粗末に取り扱わないで頂きたいこと、の二点が記されているのです。
この往来書添は菊舎60歳の時のものですが、これを遺言状としてみると、まず思うことは60という年齢です。菊舎が亡くなったのは75歳ですが、平均寿命30~40歳と推定される当時の人にとって60という年齢は恐らく誰しもが死を意識する歳であったに違いありません。長寿化した現代とは死に対する意識がかなり違うと思います。
また「七難消滅の誦文」を粗末にしないで下さいという言葉は、旅を守ってくれた誦文への感謝そのものと思います。これは七絃琴も同じでありましょう。分身とまでは言わずとも菊舎の生活の一端を支え、旅の慰みになってくれた琴に対する愛着と感謝があったからこその願い。菊舎は「一生感謝」の人だったのだと思いました。
無量寿の 宝の山や 錦時
~菊舎辞世~
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