「彼岸」考 №452

「彼岸」考
平成29年10月8日

 先日、秋の彼岸会をしました。春のお彼岸には冬の寒さが終わる喜びがありますが、秋のお彼岸には厳しい夏の暑さから逃れたという安堵感がありますね。今年は昨年にも増して暑さを感じましたから一層のこと。 時期を違えず咲いてくれる彼岸花を見ると秋になったことが実感されます。皆さまも同じ思いだったことでせう。

 さて、その彼岸ということ。当日もお話したのですが、仏教で言う彼岸はもちろん涅槃、悟りの世界のことですね。彼岸とは生死の海の向こうの理想の世界であり、そこに辿り着きたいという願いが自分の修行の再確認となり、同時に死者への供養になったのだと思います。お彼岸の時に彼岸会という仏事をするのはわが国だけだそうですね。

 述べましたように仏教の言う彼岸は、煩悩にまみれた人間世界(此岸)の反対側にある悟りの境地を指していますが、彼岸・此岸を文字通り理解すれば此岸はこっち岸、彼岸は向こう岸ということですね。私はこの文字通りの彼岸をつくづく味わい、そして感じたことがあります。福井県にある師匠の寺にいた時のことです。

もう十五年も前になります。仕事を辞めて永平寺に上がる直前、九月半ばごろではなかったでしょうか。ある日の昼、私はお弁当を持って近くにある九頭(くず)竜川(りゅうがわ)に行ったのです。九頭竜川は大きな川です。対岸の河川敷には運動ができる広場や広い芝生もあります。そこでお昼を食べようと出かけたのでした。

 着くと私は芝生に腰を下ろして何気なくいま来た対岸の景色を眺めました。すると、その景色が何とも言えず美しいのです。その時の心境がそうさせたのかも知れません。行ったこともない外国の風景のように見えたのです。私はその景色に見とれました。川の向こう幾分煙ったような秋の日差しの中に立ち並ぶ家々の屋根や壁が絵葉書の景色のように見えたのです。

 私はこの時のことを思い出す度に考えるのです。その景色こそ正しく彼岸であったのだと。憧れに近い思いで眺めた景色。容易には行くことが出来ず憧れとしてある所。しかし、いつかはそこに行きたいと思う所そして境涯。それこそが彼岸でありましょう。人は誰しも彼岸を失ってはならないと思います。
 
 
彼岸は人間の“悲願”
 
 
 

0 件のコメント:

コメントを投稿