門前の小僧 №455

門前の小僧
平成29年10月28日

「門前の小僧習わぬ経を読む」という諺がありますね。日頃見聞きしているといつの間にか習わないことも覚えてしまうという意味ですから悪い意味ではありません。むしろ意識せずに繰り返すことの大切さを言っているのかも知れません。この私が幾つかのお経をそらんじることが出来るのも同じことだと思います。

 しかし、そこには落とし穴もあります。日頃の見聞きでそらんじることが出来るようになったお経であれなんであれ、自然に体得したものはその本質を理解しないまますべてを分かったように思ってしまう危険です。たとえお経を読むことが出来たとしてもその意味するところに近づかなければお経を学んだことにはなりません。

 俱胝(ぐてい)一指(いっし)という禅話があります。俱胝というお坊さんの話です。この俱胝和尚、人から何か尋ねられると決まって指一本立てたというのです。誰に何を聴かれてもいつも指一本。どの指を立てたかは知りませんが、ともかく指一本立てるのが俱胝和尚の答えなのです。そこに何を感じるかはそれぞれですから禅問答そのままですね。

 その俱胝和尚のところに一人の小僧さんがいました。ある日、その小僧さんが町の人から「和尚さんはどう教えるのか」と聞かれて即座に指一本立てたというのです。これを伝え聞いた俱胝和尚、その小僧さんを呼んでその指をばっさり。泣いて逃げる小僧さんを呼び止めて俱胝和尚、指一本。その瞬間に小僧さんは悟ったというのです。

 この話は門前の小僧に通じるものがあると思います。共に形をまねすることはできましたが、その本質の理解はありませんでした。お経を読むという形、指一本立てるという形こそ真似は出来ましたが、その形とその形が持っている真実とは別のものです。形と内容が一緒になってこそ学んだということになるのです。

 考えると、自分も往々にして上の小僧さんと同じようなことをしているのではないかと思えてなりません。反省熟慮のない単なる人まねや分かったつもりの言動。そこからくる妄信過信。それに気づくことがなければ自らの進歩も成長もありません。私たちに大切なことは照顧脚下。振り返って考えることですね。
 
 
   論語読みの論語知らず
 

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