平成29年10月17日
前々号(「彼岸」考)で文字通りの彼岸、向こう岸という意味で私が体験したことを申し上げました。あの時、どうして九頭竜川の対岸の景色を美しいと思ったのかは分かりません。でも確かにあの時、柔らかな秋の日差しに包まれた家々の景色は行ったこともない外国の風景のように憧れて見えたのでした。
しかし、ひよっとしてお気づきの方があったかも知れません。私が見た景色は実は私がやってきたところなのです。日常的にそこに住んでいるところなのです。これって矛盾そのものではないでしょうか。正直、悪戦苦闘している日常の場に憧れるはずはありません。とすると、私が見た景色は現実とは無縁の景色だったということになります。
いや別の言い方をするならば、日常の場が実は憧れの場所であるにも拘わらず、私がそうと思っていなかっただけということかも知れません。童話劇「青い鳥」ではありませんが、探し求めて得られなかった幸せの青い鳥が枕元の鳥かごにいたということと同じかも知れません。私の体験は一瞬の心境の相違がつくり出したのかも知れません。
「一切衆生 悉有仏性」という有名な言葉があります。「悉有仏性」は漢文読みでは「悉く仏性を有つ」となりますが、道元禅師はこれを「悉有は仏性なり」と読まれました。これは大変画期的な読み方なのです。一切衆生とは存在するものすべてということですから道元禅師の読み方をすれば「存在するもの(悉有)は仏」ということなのです。
存在するものは、「仏性を持っている」のではなく「仏そのもの」と解した時には、私たち衆生は「悟りそのもの」です。彼岸を欲する存在ではなく存在がそのままが、悟りすなわち彼岸、ということになります。私たちは悟りを求める存在ではなく、私たち自身が悟りそのものであることが「悉有仏性」ということなのです。
悟りというのは結局「気づき」だと思います。私たちが仏であることに気づくためには、小さな気づきを繰り返していかなければなりません。「何だ、そうだったのか」という小さな気づきを繰り返していくことが大事だと思います。そして、その繰り返しの果てに自分が仏であることに気づくのでありましょう。珍重珍重。
衆生本来仏なり
衆生のほかに仏なし~白隠禅師~
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