お遍路で考えたこと① また「人生即遍路」 №456

また「人生即遍路」  お遍路で考えたこと①
平成29年11月1日

 先月1078日、高知県6カ寺のお遍路に行って参りました。昨年5月の高林寺様のお遍路最終回から一年半。今回は神奈川のKさんが企画して下さいました。今回もよろよろ歩きながら考えたこと、聴いて頂ければと存じます。

 表題の「人生即遍路」はいつだったかも紹介申し上げました。山頭火の言葉です。この言葉、遍路の札所何か寺かで見ることが出来ますが、今回伺った第33番雪蹊寺には門前の石柱にこの言葉が彫られています。それを見る度、山頭火にとってもお遍路は孤独感や寂しさを味わう旅であったのだろうと思えてなりません。

 実は私もお遍路に孤独の寂しさを覚えることがあります。毎度と言ってもよいかもしれません。そして、こう思うのです。人生が遍路であり、遍路で覚えるものが孤独感や寂しさならば、人生は孤独の寂しさ、と言えるだろうと。みんなと一緒のお遍路でありながらふっと寂しさを感じるというのは、人生が持つ孤独、寂しさを感じることではないかと。

 私の思いの一つは「人生は旅」ということです。旅と人生には共通するものがあります。その一つが寂しさではないでしょうか。自分自身、これまで何回かの旅を経験して実感したのは、旅はその本質に寂しさを持っているということ。何人か一緒の遍路であってもふとした瞬間に感じる寂しさというのは人生の孤独感ではないでしょうか。

 山頭火が「人生即遍路」と言った時の「遍路」は寂しさと同義語ではなかったでしょうか。山頭火に「また見ることもない山が遠ざかる」という句がありますが、一人黙然と歩む旅は嬉しいこと楽しいことよりも人生の寂しさを覚えることの方が多かったに違いありません。そう考えると「人生即遍路」という言葉が胸に刺さる思いがします。

 人は一人では生きられません。親子兄弟夫婦そして友人知人。私たちは自分の周囲の人たちに助けられ励まされて生きています。でも人生にはそれぞれ孤独の一面もあります。人生の中で自分しか関われないものを持っています。それこそが人生の寂しさの淵源でありましょう。さあ今日も人生の旅です!
 
   幾山河越えさり行かば寂しさの
   ()なむ国ぞ今日も旅ゆく
             ~若山牧水~
 
 

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