無常永遠 №481

無常永遠
平成30年4月8日


 今回のたよりは前号(また「ゴミ屋敷」考)の続きでしたね。実はその続きが今日花祭りの日の法語に関係しますので、まずその法語から申し上げたいと思います。

    往昔釈尊誕生時    お釈迦さまのお生まれを
    恵甘露顕現大慈    祝福し給う恵みの甘露
    爾来二千五百年    以来代々有難く
    児孫今日保威儀    我らは今日も教えに生きる

 お釈迦さまは今から2500年以上も前のお方です。しかし、お釈迦さまが説かれた法は今なお私たちが生きる教えになっています。それは教えが真理だからです。

 私はその教えの中でも「諸行無常」ということに魅かれます。有情無情を問わずこの世の一切のものは一瞬として留まっていないということ。ものすべて常住不変ではなく変化し続けるということ。これこそ真理以外の何ものでもありません。前号の続きで言えば、私たちの体も諸行の一つ。一瞬たりとも変化して止まない存在なのです。

 前号に申し上げましたように私たちの体は常に外界から取り入れた物質を自分の体を維持するためのエネルギーにつくりかえ、不要になった老廃物を体外に出しています。この不断の営みがあってこそ私たちは一定の形態を保っているように見えるのです。変化しつつ状態を保つこと、これが「動的平衡」と呼ばれる働きなのですね。

 私はこの「動的平衡」こそが「諸行無常」だと思います。私たちの体はもちろん、すべてのものは一見変わらないように見えながら常に変化を続けているというのが真実でありましょう。物質も現象も時には膨らみ時には収縮しています。膨らんだまま縮んだままではありません。膨らんだり縮んだりという変化をくり返しているのです。

 表題に「無常永遠」と書きました。無常とは変化して止む時がないということだとすれば、その無常は永遠です。永遠でなければ無常ではなくなってしまうのですから。と思うと、この諸行の一つである人間も永遠の存在ということが出来るでありましょう。魂が肉体を離れる「死」も永遠の変化の一過程なのです。
 

 露の世は露の世ながらさりながら
            ~小林一茶~


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