「万引き家族」 №502

「万引き家族」
平成30年8月17日

 先達て映画「万引き家族」を観ました。カンヌ国際映画祭で最高賞、パルムドール賞を受賞したこの映画、ご覧になった方が多いと思いますが娯楽映画ではありませんでしたね~。観終わってため息というか心にもやもやしたものを覚えた方も多かったのではないでしょうか。私もその一人。生きることの悲しみが先になってなりませんでした。

 監督の是枝裕和さん自身がこの映画について「家族とは何かと考える話でもあり、父親になろうとする男の話でもあり、少年の成長物語でもあります」と言われているように、まず思うことは「家族とは…」でしょうが、私はその延長に人間の絆という現代の私たちが直面している問題があると思われてなりません。

 このことについて思想家の内田樹さんが面白い指摘をされています。この映画の舞台は高層マンションの谷間に立つ古い平屋ですが、その家には多すぎる6人もの住人と過剰な家具什器がプライバシーのない「狭さ」となり、それが家族を「無私」化させ、接触が濃密化して遂にはアモルファスなねばねばした「かたまり」のようなものに化していく、と言われるのです。

 私はこの内田さんの指摘に同感を禁じ得ません。万引き家族は血縁関係ではありません。その彼らが共同体になろうとすれば無私化して初めてできる濃密な関係が必要であったのでしょう。その根幹が万引きという犯罪であったとしても家族の絆、柴田家という共同体のためにはそれが原動力となったに違いありません。

 映画の中で息子祥太がレオ・レオニーの絵本「スイミー」を朗読するシーンがありますが、これも互いに無私化して初めて可能になった大魚、この映画で言えば万引き家族柴田家を象徴しているように思われました。無私化というのは特定の状況に追い込まれるか意識的にそうするかが必要なのだと思います。

 我が国で核家族化が始まったのは昭和30年です。それからすでに60年以上経っていま日本は「家族」が大きな問題になってきました。これからの家族、共同体はこの映画のように何か共通するものが基盤になって行くかも知れません。私たちがどのような絆をつくっていくか。「万引き家族」はそれを提起しているのだと思います。
 
   (映画を)作っている感情の核にあるものが
    喜怒哀楽の何かと言われると
    今回は“怒”だったと思います。
                <是枝裕和>

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