平成30年11月23日
振り返ることはないんだ自分の死 熊本・坂の上の風
先達て、といってももう先月末のことになりますが、上の句が毎日新聞の中畑流万能川柳に載っていました。作者はむろん選者にとってもこの川柳はそうだという共感があったに違いありません。私自身その共感に共感する思いがあることを否めませんでした。
人間死んだらどうなる。これは誰しも思うことですね。この時、唯物的に考えるなら物質から独立した霊魂とか精神とかはありませんから肉体の消滅によってすべて無に帰することになります。上の川柳は恐らくその立場からの句でありましょう。意識が高度に組織された物質(脳髄)の所産と考えるならば肉体の死の以後の自分はありません。
しかし、輪廻転生の立場から考えるとどうでしょう。仏教では解脱しない限り生あるものは迷いの世界である三界六道を輪廻しなければならないと考えられています。ということは、私たちは解脱しない限り意識的な個として生死を繰り返さなければならないということになります。私はこの立場です。人生一回で終わりとは思っておりません。
人生ただ一回ならば道徳も倫理も無視できませんか。いや一回だからこそ道徳を全うしたいという殊勝なお方もいるに違いありませんが、多くの人は好き放題やり放題でいいと思うのではないでしょうか。私たち人間の人生がただ一回なのか、意識的な個としての人生が続くのかという違いが人生を考える分かれ道になるように思います。
表題の「回光返照」という言葉は道元禅師が書かれた「普勧坐禅儀」にあります。「須らく回光返照の退歩を学すべし」という文言ですが、この「回光返照」というのは我が身を振り返るということです。進歩でなくて退歩。よくよく自らを振り返って自分が何者であるかを見極めなさいというのがこの「回光返照」なのです。
神秘学では人間は死後、自分の一生をパノラマのように見た後、過ごしてきた人生が自分にとってまた周囲の人にとってどんな意味を持っていたのかと反省する時を過ごすと言います。私はそれが真実だと思います。私たちは永遠の修行者として常に自己を振り返り、反省の後に新たな生を頂くのだと思います。珍重。
あるものは胞胎に生まれ
悪しきをなせるものは悪処にゆき
行いよきものは福処にゆき
諸漏のつきたるものは涅槃に入るなり
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