続「お迎えを受けるには…」 №514

続「お迎えを受けるには…」
平成30年11月25日

 先日のこのたより「お迎えを受けるには…」(№508)で「お迎え現象」を体験した人が例外なく穏やかな最期を迎えるということを申し上げましたが、これをお読み下さった神奈川県のKさんがご自分の体験感想をお寄せ下さいました。そのご指摘になるほど最もと共感を覚えましたのでご紹介させて頂きます。

 Kさんはこう言われるのです。「今の時代の葬儀は多くが自宅ではなくセレモニーホールで通夜、告別式が極めてシステマティックに執行され、遺族側も弔問客も会話をすることはなく一定時間で坦々と経過していますが、これは双方にとって一種“気楽”な展開です」と。“気楽”な展開という指摘、言われてなるほど、と思いますね。

 Kさんは続けてこう言われます。「以前なれば恐らく遺体を前に(多分)ダラダラとお悔やみのほか故人の話などを続けたのでありましょう。この“ダラダラ”は実はお互いにとり非常に大切な時間だったのではないでしょうか。寝ている遺体にとっても。こういう一見、無駄なやり方が捨象されている葬儀は多忙な現代社会の一種の知恵なのでしょうが…」と。

 Kさんは上のことを最近伺った隣人の葬儀の折に感じたと言います。先日のたよりにも書きましたが、いま亡くなる人の8割が病院という現実があります。その現実がもたらしたものは死を忌まわしいものと忌避し、死を儀式化商業化することでした。以前は身近であった死が他所事化した結果がKさんの上の指摘だろうと思います。

 申し上げていることですが、死は次の生の始まりです。肉体の死が人間の死ではありません。命あるものは死ぬ、というのは生物としての身体です。しかし、霊的存在としての人間は永遠の魂を持っており、肉体に宿った魂が生まれ変わり死に変わりを続けていくのです。それを輪廻転生と言うのです。

 死をもう一度身近に取り戻すこと。それがお迎えを頂くために最も必要なことではないでしょうか。誰一人避けることが出来ない死を以前のように身近なものにし子が親を孫が子を順に送ること。単なる儀礼ではなく淋しさ悲しさを露わにする別れこそお迎え現象の基本ではないでしょうか。
 
 
人の世は 命の順に お送りし
    私もいつか お迎え頂く
 
 

0 件のコメント:

コメントを投稿