続・供養の本質 №554

続・供養の本質
令和元年9月17日

 先日のこのたより「供養の本質」(№550)で、供養は亡くなった人のためであると同時に自分自身のためであると申し上げましたところ奇しくも神奈川在住のお二人から共感下さる感想を頂きました。その感想に私も改めて思うことがありましたのでそれをご紹介がてらもう一度供養について考えてみたいと思います。

 まずKさん。Kさんは以前から「亡き人への供養は自分のためでもある」と感じていたそうです。最近、ボランティアに行っている高齢者施設で知り合った方々が相次いで亡くなってその感を一層深くしているそうですが、Kさんはボランティアはそれをすることによって逆に自分が生かされていると感じるとおっしゃるのです。

 以前、Kさんを見て「あなたの笑顔は亡くなった主人にそっくりだ」と言ってハラハラと涙を流された方がいたそうです。最後となった将棋対局をした方もあったそうです。その方たちの訃報にKさんは亡くなった人たちへの思いを忘れずにいることで自分が生かされていることを実感できるのではないかと言われるのです。

 もうお一方のTさん。Tさんは供養の原義が「美味しいものを差し上げる」ということに思わず胸によぎることがあってハッとしたのだそうです。Tさんはもう20年以上も前に若くしてご主人を亡くされましたが、そのご主人が生前一度だけ「貝の入ったご飯大好きなんだ。いつかつくってほしい」と言われたことがあったのだそうです。

Tさんはそれができずじまいになったことを心のどこかに思い続けていたのでしょう。たよりを読んで来年のお盆にはぜひその貝のご飯をつくろうと思って下さったそうです。余談ながらこの話を伺って私も初めてアサリの炊き込みご飯をつくってみました。私は本物は食べたことありませんが例の「深川めし」ですよね。美味しかったです。 

 いや脱線失礼。お二方の感想を伺って改めて思うのは供養とは「その人を忘れない」ということ、第二に「お好きだったものを差し上げる」こと。そして同時に自分と亡くなった人がいつも身近にあって「お話」すること。亡くなった人には現実に逢うことこそ叶いませんがいつも身近にお出でになるというのが真実だと思います。
 

うつつには逢ふよしもなしぬばたまの

夜の(いめ)にを継ぎて見えこそ
        
          <万葉集>

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