令和元年10月17日
今月2日~4日、お遍路に行ってきました。例の高林寺さんが企画して下さったのですが今回は主体がバス利用でした。その裏には皆さん歩き遍路が困難になったという年波事情がありますがその典型が私でありましょう。この二年ほど筋肉痛になって歩くことに自信がなくなった私には歩けるところだけ歩くという有難い計画でした。
で、表題の“同行二人”。お遍路の別名とも言えるこの言葉はむろんお遍路をする者にはお大師様がいつも一緒にいて下さるという意味です。私も自身最初のお遍路の時四国にはお大師様が実在しているという体験をしましたが、お遍路をする者、別けて歩き遍路をする者にとって「同行二人」は言葉を越えた意味と力を持っていると言えましょう。
しかし、今回の“同行二人”は不埒にもそれとは逆の体験なのです。自分の心の中のもう一人の自分。その自分と一緒に歩いているという意味なのです。
何もかも投げ捨てたいと思うほどダメな自分と二人で歩く
上の歌はそんな思いの中で浮かびました。ダメな自分との“同行二人”なのです。
人は誰しも明るい部分と暗い部分を持っているはず、と思います。自分自身のことを言えば、自慢し誇りに思う自分よりも勇気なくずるく卑怯で恥ずかしい体験の方が遥かに多いと言わざるを得ません。そんな記憶がよみがえる度ワーッと叫びたくなるのです。でもいくら叫んでも体験の記憶は消えることはありません。
そう思うと私もちろん、人はみな自分の心の中の善悪二人、正邪二人、聖俗二人、欲無欲二人と一緒に人生を過ごさざるを得ないのではないでしょうか。善悪正邪聖俗欲無欲などの両面を振り子のように揺れながら人生を過ごさざるを得ないのではないでしょうか。時に善が勝ち時に邪に負け時に俗と欲に溺れながら過ごさざるを得ないのではないでしょうか。
お釈迦さまは「悪いことはせずよいことをしなさい。心清らかにすることに努めなさい」と言われました。私はこのお釈迦さまの教えに従いたいと思います。無惨な過去は過去としてこれからは心の中の善人義人そして聖人とともに歩むことを努めたいと願って止みません。それこそが私たちの精進だと思います。
迷うがゆえに三界は城なり
悟るがゆえに十方は空なり
本来東西なく
何処んぞ南北あらんや
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