にはたづみ №677

 にはたづみ

令和4年4月17日

 今年も寺の桜がきれいに咲いてくれました。先日花祭りの時には大方が散っていましたが、今度はその散った花びらが地面一杯に敷き詰めてこれまた見事なものでした。皆さんご存知でしたがその様を「花むしろ」と言いますね。水辺に落ちてひとかたまりになった花びらは「花いかだ」と呼びます。これも皆さんご存知でしたね。

 その話をしている時ふっと思い出した言葉がありました。それが表題の「にはたづみ」です。

漢字では「庭潦」と書きます。降った雨が地面に溜まって流れる様子を表した言葉です。古い言葉で万葉集には「常もなく移ろふ見ればにはたづみ流るる涙とどめかねつも」(人間も無常に変化するのを見ると流れる涙は止めようもない)という歌があります。
 学生時代、この言葉を知った時私は大変感銘を受けました。日常の些細な現象に目を向けてその様子を言葉にしたことに驚きを覚えたのです。庭に降った雨が小さな流れになっているなんてどうでもいいこと。目にも止めなくて当たり前でしょう。ところが往時の人はその様に目を向けて「にはたづみ」と言い表したのです。

 「花むしろ」や「花いかだ」もそうですが、これらの言葉が生まれたのは昔の人が身の回りの小さな変化にも敏感であり注意深かったということでありましょう。生活が自然の中にあったとも生活が自然と一体化していたとも言えるでしょうか。私はこれらの言葉に昔の人のゆとり余裕を感じてなりません。

 自然の中の小さな変化や現象に目を向けるということは注意深さと余裕がなければできません。仕事に追われ生活に齷齪していては余裕もゆとりもありません。自然の中の小さな変化や現象に目を向けることが人生を楽しむことであるなら私たち現代人の生活と人生は今そこから遠く離れたところにあると言えないでしょうか。


 私は仏教もゆとりの中にあると思います。観音さまを信じようが信じまいが生活に変わりはないでありましょう。しかし、観音さまに親しむ余裕ゆとりができればその人の生活は豊かで潤いのあるものになって行くと思います。ゆとり余裕のある生活を心掛けることが如何に大切かと思われてなりません。


丘の上で としよりと こどもと

 うつとりと雲を ながめてゐる

       「雲」山村暮鳥

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