「共助」の時代
令和4年6月17日
先日のこのたよりでこれからの世界は「共助共存」でなければならないと申し上げました。まずは共存でしょうが、この共存もただ可能なわけではありません。国同士で言えば互いの共通点よりも相違点を知ることが第一になります。違いを理解しその違いを互いに認めることがなければなりません。
知って認める、と言うのは容認です。容とは許すこと、受け入れること、です。認は許すこと、承知すること、です。共存には受容し承認することが必要になります。その上で互いの違いを衝突させないようにしなければ共存は出来ません。その共存ができたのちに共助が可能になるのだと思います。
共助と言うのは言い換えれば相互扶助だと思います。困っている人苦しんでいる人悲しんでいる人があった時その人がその苦しみ悲しみから脱け出せるように援助すること、それが共助であり相互扶助だと思います。「武士は相見互い」の相見互いです。武士に限りません。人はみな相見互いでなければなりません。
この共助、相見互いは仏教の言葉で言えば「布施」でしょう。ご存知、私たちが修行すべき六波羅密(布施・持戒・忍辱・精進・智慧・禅定
)にこの布施が言われていますが、布施が六波羅蜜の最初に言われているのは意味があってに違いありません。私たちがまず第一に心がけるべき修行こそ布施だと思うのです。
道元禅師はこの布施について「布施というは貪らざるなり。其物の軽きを嫌わず其功の実なるべきなり。法も財なるべし。財も法なるべし。但彼が報謝を貪らず、自らが力を頒つなり」と言われています。「布施とは貪らないことだ。軽いとか多いとかは問題ではない。相手のためになっているかどうかだ」と言われるのです。
今では死語同然になってしまいましたが「向こう三軒両隣」という言葉がありましたね。共助の原点はその「向こう三軒両隣」だと思います。日常の近隣がまず助けられたり助けたりすることができて共助の輪が広がっていくのだと思います。これからは共助なくしては暮らせない時代です。助けてこそ助けられるのです。
とんとんとんからりんと隣組
地震やかみなり火事どろぼう
互いに役立つ用心棒
助けられたり 助けたり
<隣組>
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