お遍路で考えたこと② 祈りと無常 №706

 お遍路で考えたこと②祈りと無常

令和4年11月19日

 今回のお遍路では香川県の20カ寺を回りましたが、そのうちの本堂と大師堂にコップ酒と個包装のおつまみ一つがお供えされている札所があちこちにありました。いちいち確認した訳ではありませんので20カ寺全部に供えられていたかも知れません。とすれば88の札所全部に同じように供えられていたのかも知れません。

 むろん、そのお供えは何かの願いか祈りでありましょう。そのお供えを見たみなさんの推測は断酒、でなければ逆にお酒が飲めるようにではないか、ということでした。札所ではお詣りの証しに本堂と大師堂に写経や納め札を供えるのが習いですが、これもむろん願望や祈りの成就を願ってのこと。お遍路は「祈りの旅」と言えるでありましょう。

 祈りに関してもう一つ見たものがありました。83番一宮寺へ行く途中の道そばに「満州国牡丹江」と彫られた腰丈ほどの石の門柱のある50坪ほどの敷地があり、その中央には何かが建てられていたと思われるコンクリートの基壇が残されていました。作られたのは昭和24年と分かりましたが、基壇に何があったのかは分かりません。

 推測されるのはその場所は恐らく引き揚げてきた満州移民の関係者が彼の地で亡くなった人を追悼する慰霊の場だったのではないかということです。とすれば、つくられて70年以上経ったいま当時の方々はもう存命してはいないでありましょう。恐らくは関係者の高齢化で「慰霊所じまい」をしたに違いありません。

 残された敷地を眺めながら思いました。人は祈りの存在であると。祈りとともに生きるのが人間であると。しかし、時が経てばその祈りを祈る人がいなくなることは避けられません。まさに時無常人無常です。


お釈迦さまは「世は皆無常なり」と言われました。しかし「世は無常」であっても私は祈りは消えないと思います。なぜなら祈りはエネルギーだからです。一心の祈りは一心のエネルギーだと思います。今回見たコップ酒の祈りも慰霊所の祈りも私は消えないと思います。祈りというのはそういうものではないでしょうか。


えんぜるになりたい

花になりたい

   <花になりたい・八木重吉>



0 件のコメント:

コメントを投稿