大江健三郎さんの死を悼む  №723

 大江健三郎さんの死を悼む 

令和5年3月18日

 14日、大江健三郎さんが3日に亡くなったことが伝えられました。いずれこの日が来ることは思っておりましたが、いざ訃報に接すると改めてまた一人、日本の良心が失われたことに力が抜ける思いを禁じ得ません。88歳であったとは言え、お元気でいて下さることが私たちの心の支えでありました。只々残念です。

 親交のあったという映画監督の山田洋次さんは「物事を考える上で正しい指針を与えてくれる人がいなくなってしまった不安と悲しみに包まれています。心ある日本人にとって羅針盤を失ったような気持ちではないでしょうか」と言われていますが全くその通りだと思います。私たちは心の拠り所にしていた羅針盤を失いました。

 正直言えば私にとって大江さんの作品はその多くが難解そのものでした。ほとんど理解できなかったと言ってよいと思います。そんな私が大江さんに共感し、日本の良心と思ったのは護憲、反戦、反核、脱原発を身をもって活動して下さったからです。2004年に「九条の会」を発足させ、2011年の福島原発事故以後は一貫して脱原発を訴えられました。

 その福島原発事故から12年になる今年、岸田政権は原発の稼働年数を延長しようとしているばかりか新増設までを企む原発回帰をしようとしています。自民党は九条に自衛隊を明記する改悪を執拗に目論んでいます。私たちの核廃絶の願いをよそに日本は核兵器禁止条約に加盟さえしていません。大江さんの無念を思います。

 大江さんは愛媛県大瀬村(現・内子町大瀬)のお生まれです。私は作品に出てくるその村がどんなに山奥かと思っていましたが、お遍路の折に見たご生家は町中の立派なたたずまいの家でした。そこにはお母さんが住んでおられました。


 ご子息の光さん、幾つの時だったか、内子町のそのお母さんに齢を尋ね、「80になりますよ」と言うのを聴いて「じゃもうすぐ死にますね」と言ったということに思わず笑ってしまいましたが、大江さんにとっては障害を持って生まれた光さんの存在が作品を生む上での原点だったのだと思います。光さんという息子さんを持ったことが活動の基点であったに違いないと思えてなりません。


<原発事故について>

「僕は死ぬまで、

次の世代の子供たちに悪いと思い続けます」

              大江健三郎

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