一期一会 №732

 一期一会

令和5年6月1日

 先月下旬、お遍路に行ってきました。今回は最終回とあって85番八栗寺から結願の88番大窪寺までの4カ寺、その後、フェリーで和歌山港に渡り、翌日高野山奥の院にお礼参りという日程でした。実を申しますと、私これまで高野山に行ったことがなかったのでお遍路の掛け軸を仕上げるために有難いことでありました。

 余談はともかく今回のお遍路で考えたことの一つは「ここにも人が住んでいる」ということ。このことはお遍路で時々思うのですが、バスに揺られながら点在する家々を見ていて、そこには下関在の自分が一生会うこともない人たちが暮らしているということに不思議な感慨を覚えました。人が一生のうちに遭う人は本当に少ないのだと思います。

 思ったことのもう一つは表記の「一期一会」です。申し上げましたように私は今回が初めての高野山参りでした。かねて聞いてはいたものの実際に目にする伽藍の偉容には圧倒されましたが、その時ふと思ったのです。私は今生のうちにこの高野山を再び訪れることがあるだろうかと。最初で最後ではないかと思えたのです。

 茶会の心得で言う一期一会は今この時の参会を生涯ただ一度の参会と思えと言うことでしょうが、私が高野山で思ったのは文字通り自分にとって今回のお参りが一生一度のお参りになるであろうということでした。一期一会というのはその根底に無常という観念があるに違いありません。

 今回、バスの窓からあちこちの山裾に咲いている楝(おうち・センダンの古称)を見ていて「妹が見し楝の花は散りぬべし我が泣く涙いまだ干なくに」という万葉集の歌を思い出しました。この歌は大伴旅人の妻が亡くなった時、旅人の心情を思って山上憶良が詠んだ歌ですが、思えば夫婦も一期一会でありましょう。


 私たちの毎日も同じです。私たちは今日の続きで明日があると思いがちですが、実は明日は今日の続きではありません。今日は今日、明日は明日。今日と明日は全く別の日です。一瞬も留まることのない無常の中にあって私たちが意識できるのはいまという瞬間に過ぎません。一期一会とはそれではないでしょうか。


年たけてまた超ゆべしと思ひきや

  命なりけり佐夜の中山

           西行

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