貧女の一灯 №399

貧女の一灯
平成28年10月1日



 
 たより№397(布施は修行)で布施行は各人の力量に応じてなされるべきものであることを申し上げました。である以上、布施は量の多寡、額の多少が問題ではないと申し上げました。布施で大切なことは真心、精一杯ということです。布施行に託された信心の深さこそが布施功徳の大小になるのです。

 このことを伝える恰好の話があります。それが表題の「貧女の一灯」という話です。それはお釈迦さまがまだこの世においでの時のことでした。時の国王アジャセは祇園精舎にご滞在のお釈迦さまとその弟子達のために毎日の食べ物を供養しておりましたが、ある時、万灯の布施を思い立ち沢山の油を祇園精舎に運んだというのです。

 これを伝え聞いた一人の貧しく年老いた女性がいました。そして、私もせめて一灯と五合の油を携えて行ったのですが、その五合も二合分しか手持ちがなかったこの女性の篤信に感銘した油商人が三合分を足してくれたというのです。女性はそのお供えした油がどうか夜通し消えないようにと祈って火を灯しました。

 すると、その女性のともし火は他のどんな明かりにも増して光り輝き、願い通り朝まで消えることなく、あの目連さんが消そうとしても、その一灯だけは消すことが出来なかったというのです。お釈迦さまはこの話を聞いて、この女性は三十劫の後、功徳成満して「(しゅ)()(とう)光明如来」になるであろうと予言したと言います。 

 これを聞いたアジャセ王は、自分の方が遥かに沢山の布施や供養をしたのに、何故あの貧しい老女が未来の成仏を予言されたのかと、お側の医師ジーヴァカに尋ねたところ、ジーヴァカは「布施は量の多寡が問題ではなく布施する者の真実の信仰こそが大切。その真心に布施の功徳が現れるのです」と申し上げたというのです。

 繰り返して申し上げますが、布施は布施行。自分が自分のためにする修行です。そこには「布施してやった」もなければ「こんなに布施した」もありません。あるとすれば「布施させて頂いた」という感謝ではないでしょうか。お礼も見返りも望むことない布施こそが真の布施行でありましょう。合掌。

安穏(やすらか)にして
(おそ)れなき人を供養せんに
いかなる人ありとも
この功徳(さいわい)(かさ)を 計る(あた)わじ  
             <法句経>

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