お遍路で考えたこと① 結愛(ゆあ)ちゃんのこと №493

お遍路で考えたこと① 結愛(ゆあ)ちゃんのこと
平成30年7月1日

 先月6810日、香川県にお遍路に行ってきました。今回は直前に行かれなくなる方が増えて結局3人だけになりました。実は私も筋肉痛のことがあって行かれるかどうかギリギリまで不安だったのですが何とか参加することが出来ました。でも今回の私には筋肉痛のほかにもう一つ行く前から憂鬱なことがありました。

 それは結愛ちゃん、船戸結愛ちゃんの事件でした。両親から心身の虐待を受け食べ物さえろくに与えられずに亡くなったという結愛ちゃんに不憫の思いを募らせた方も多かったに違いありません。強要されて覚えたひらがなで「きょうよりかあしたはできるようにするからもうおねがいゆるしてゆるしてください」と書いた切なさに胸が詰まります。

 お遍路の初日二日、私の胸に去来したのはその結愛ちゃんのことでした。ルドルフ・シュタイナーは「我々の地上の人生体験は我々自身があらかじめ用意して置いたものだ」と言います。その考えに従えば結愛ちゃんは虐待死を自ら決めて生まれたことになります。しかし、今度ばかりは私もそれに従う気にはなれませんでした。

 私は結愛ちゃんは犯罪者、父親に殺されたのだと思います。犯罪者は人間についての理解が足りないまま生まれてくると言われますが父親はその類でありましょう。だからこそ5歳の幼女に信じられぬ虐待をしたのだと思います。結愛ちゃんは父親に殺されたのです。

 とすると、結愛ちゃんの死に救いがありません。同じ死でも親の庇護のもとに亡くなるのであれば救われます。しかし、そうでなければ救いがありません。私が最もつらく思ったのはそのことでした。結愛ちゃんに恨みの心しかなければその恨みの心が新しい生まれ変わりに大きな障害になってしまうからです。


 お遍路後の6月の観音様の会では結愛ちゃんの慰霊供養をしてお集りの皆さんに祈りを捧げて頂きました。結愛ちゃんが人を恨むことなく新しい生まれ変わりのために精進し、来世には幼い子どもを守る人として活躍してくれることを願って止みません。どうぞ皆さまも結愛ちゃんの幸せな後生を祈ってあげて下さい。
 

   一つ積んでは父のため
   二つ積んでは母のため
   三つ積んでは 
   ふる里の兄弟我が身と回向して…
            <地蔵和讃>
 

 

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