お遍路で考えたこと② 遊行期予習 №494

お遍路で考えたこと② 遊行期予習
平成30年7月8日

 今回の香川県お遍路、私は第75番札所善通寺から80番国分寺までの6カ寺でした。これまでに比べると札所の数も歩行距離も格段に少なくて楽勝のはずでしたが、実際はそうは問屋が…、でした。やっぱり気になっていた筋肉痛が騒ぎ出して最後の数キロはちょうど休憩場所にあった駅から電車でキセルをさせて貰いました。

     梅雨の間の日照りの道を行くわれに何と涼しき一陣の風

     山頭火歌いし如くふたたびは見ることのない山遠ざかる

     自らが望んで生まれてきたんだと思いはしてもなお霧の中

 今回のお遍路はお天気が心配でしたが、結果的には晴れて暑いほどでした。でも時折さっと吹く風がむしろ冷たいほどに快くて助かりました。有難かったです。山頭火に「また見ることもない山が遠ざかる」という句がありますが、お遍路に行くとその思いが実感されます。あるいは再び見ることがあってもその時は「一期一会」に違いありません。

 三首目。歩いていると様々なことが思われます。前号でシュタイナーが「我々の地上の人生体験は我々自身があらかじめ用意しておいたものだ」と言っていることを紹介しましたが、その通りであるなら人はみな自ら望んで生まれて来たことになります。しかし、そうは思っても現実を素直に認めることは難しいのが本音ではないでしょうか。

 インドには人生を学生期、家長期、林住期、遊行期の四つに分けて考える「四住期」という考えがあります。この考えからすれば私は疾うに遊行期になっています。遊行期とは文字通りあちこち巡り歩く時です。人生の最後の時に巡り歩くというのはどんな意味を持っているのか、そう考えたインド人に不思議を覚えます。

 痛む足を引きずりながら歩いてつくづく思いました。私がこの先この遊行期を文字通りに過ごすことがあるなら今回のお遍路はその予習ではないかと。これから先体力は衰える一方にあって歩くことが困難になるのはむろんです。恐らくは今回のように足を引きずりながら歩くことになりましょう。その予習を実感させられたお遍路でした。

どうしようもないわたしが歩いてゐる
           ~山頭火~

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