仏法と世法 №496

仏法と世法
平成30年7月17日

 表題の仏法とは仏教の戒律・仏制。お釈迦さまが決めた規範を言います。それに対して世法とは世間一般に通用している習わし、常識と言ってよいものでしょう。この仏法と世法、9割方は一致しているのではないでしょうか。しかし、時にこの仏法と世法が一致しないこともあります。その例が坐禅会で読んでいる「正法眼蔵随聞記」に出て来ました。

 その随聞記、巻13-1(先師全和尚入宋せんとせし時)がそれです。ここで言う全和尚とは道元禅師と一緒に宋の国に渡った明全(みょうぜん)さんのことです。道元さんと明全さんがまさに宋の国に行こうとしている時、明全さんのお師匠さん、死の床に瀕した明融(みょうゆう)阿闍梨が頼りにしている明全さんに自分の看取りを懇願されたのです。

 明全さんは8歳で親元を離れて以後、明融阿闍梨に育てられたのですから明融さんは親以上に大恩のあるお方です。その方が死に瀕し明全さんに看取りを願っているのですから宋への出発を前にしてどうしたらよいか悩むのは当然でありましょう。明全さんは自分の弟子や兄弟弟子を集めて考えを聴きました。

 相談を受けた弟子たちは一様にこぞって師匠阿闍梨を看取ることを勧めます。それが師匠の仰せにもそむかず重恩を忘れないことだというのです。この時末席にいた若き道元さんも「仏法の悟りがもうこのままでよいのだとお思いでしたらお留まりなさるのがよろしゅうございましょう」と言われたそうです。

 しかし、明全さんの考えは反対でした。「どの道死ぬ人ならば私が留まって看病しても命が伸びる訳でもなく輪廻の苦を離れられる訳でもない。自分が看病すれば師匠は喜んでくれるかも知れないが、師匠は弟子の求法を妨げ罪業の因縁をつくるかも知れない。一人の人のために時を無駄に過ごすことは仏の心にかなうはずがない」と言われたのです。

 明全さんはその言葉通りに宋に赴かれましたが皆さんはこの話をどうお考えでしょうか。世法で言えば明全さんは何と恩知らずの薄情者ということになりましょう。しかし、明全さんは悩みぬかれたはずです。そして判断の決め手が「仏の心にかなうかどうか」でありました。それが仏法。仏法は時に非情でもあります。


  生きることは 神仏の使命を果たすこと
  生まれてきた者には 必ず何かの使命がある
         <生きることは>坂村真民
 

 
 

 

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