体験の共有 №108

平成23年9月13日

体験の共有


 98(続・心象風景)でお遍路道で出会った少年の思い出を書きましたが、その後、私のこの体験について人生の大先輩に当たるO先生から二度お便りを頂きました。一通目には「少年のこと、なぜかその場面が思い浮かび、時には私がその少年になったり、またその少年に追いつかれたり、その時の体験が私にとっても大事な記憶になっております」とありました。

 そして、先日頂いたお手紙には「私はいまもすぐに、そのご体験を私自身と少年にあったこととして、あるいは少年は私で私と私が強く惹きつけられた同じ道を行くある大人の方との間にあったこととして思い浮かべることができます」と書いて下さってありました。

 不思議でした。他人の体験が自分の中に定着することの不思議さはO先生もお感じとのことでしたが、私がその時思ったことは「体験の継承」ということでした。戦争体験にしても、その継承は他人の体験を共有できるかどうかにかかっています。そのためには語る人の話を素直に受け入れる心が第一の要件ではないでしょうか。

 その点、O先生は実に謙虚にして感性豊かなお方です。それゆえに他人の体験をご自分の体験として持つことが出来たに違いありません。そして同時に、私はこれは仏道や仏教を学ぶことと同じ、と思い至りました。私たちがなぜ坐禅をするのかと言えば、それはお釈迦さまがなさったからです。仏教を学ぶということはお釈迦様の真似をすることです。教えを真似ることが法を学ぶことであり修行の模倣が坐禅をすることなのです。

 師から弟子へ法を継いでいくことを嫡嫡(てきてき)相承(そうじょう)と言います。これは一つの器の水を次の器に余すことなくこぼすことなく注いでいくことに譬えられますが、教えを学ぶことも坐禅をすることもお釈迦様の体験を共有し自分の体験にしようとすることに他なりません。お釈迦様の体験の追体験こそが仏道修行であるに違いありません。 体験を追体験し、その体験を自分のものにしていく時に最も大切なこと、それはやっぱり純真にして素直な心ではないでしょうか。 


    (じき)(しん)是れ道場なり
      虚仮(こけ)無きが故に
             ~<維摩経>~
 

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