どじょうがさ… №109

平成23年9月17日

どじょうがさ…

 9月1日の山口新聞にこんな記事がありました。新しい首相になった野田さんが民主党の代表選の演説の中で「どじょうがさ 金魚のまねすることねんだよなあ」という相田みつをさんの言葉を引用したら、その翌日、東京にある「相田みつを美術館」の来館者が急増し、この言葉を収めた作品集『おかげさん』が即日売り切れたというのです。

 この反応には些か苦笑を禁じ得ませんが、仄聞(そくぶん)するところ、いまドジョウ産地も売り込みに意気込んでいるそうですから「どぜう」で有名な浅草の老舗も大いに賑わっていることでしょう。ま、それはともかく、この「どじょうがさ…」という言葉は、相田さんが亡くなる5年ほど前、ある雑誌の求めに応じて出されたのだそうです。

雑誌のその時のテーマが「自分を他人と比べない」だったそうですが、泥臭さを身上に自分の出来ることをして行く積りという野田さんにはうってつけという訳でした。どじょうが金魚になれる訳はないし金魚はどじょうにはなれません。どじょうはどじょう。金魚は金魚。どじょうはどじょうの、金魚は金魚の生き方をすればよいのです。

そういえば、金子みすゞさんの詩にもありましたね。「鈴と、小鳥と、それから私、みんなちがって、みんないい」って。みすゞさんはその詩の中で、私は小鳥のようにお空をちっとも飛べないけれど小鳥は地面(じべた)を速くは走れない。私は鈴のようにきれいな音は出せないけど鈴は私のようにたくさんの唄は知らないよ、と詠みました。それぞれがそれぞれの力と持ち味、本領を発揮することがそのものにとって大切であり幸せなことなのです。
 
 仏教に「差別即平等、平等即差別」という言葉があります。文字通り、差別はそのまま平等であり平等はそのまま差別だというのです。人間世界を考えてみて下さい。私達は男女、親子、師弟等々の差別にあり、富める人いれば貧しい人が、老いた人がいれば若い人がいます。ものには大小、長短、軽重、等様々な違いがあります。しかし、この違いを羨むことも卑下することもありません。どじょうであれ金魚であれ、私は私を生きればいいんですね。
 


     春色髙下無く 
     花枝自ずから短長

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