いや、待てよ №152

平成24年8月9日

いや、待てよ



 梅雨も末近い、雨の日の夕方のことです。温泉の露天風呂に浸かりながらふと竹垣風の仕切り塀を見るとクモが一匹垂れさがっているのが見えました。本州では一般的に見られるというアシダカグモでしょうか。比較的大きなクモです。そのクモが塀に沿ってダランと垂れています。雨に濡れ風に吹かれるまま動く気配は全くありません。

 私はそのクモは死んでいるのだと思いました。以前、クモは交尾のあとメスグモがオスグモを喰うと聞いたことがありますが、こうして自分の巣の中で絶命するクモもあるのか、と思ったのです。 風の吹くままに揺れている様に命を感じさせるものは微塵もありませんでした。それほどに物体化していたのです。

 ところが、そのクモは死んではいませんでした。確かめるつもりでちょっと触ると即座に足を動かしたのです。 次の瞬間、私が思ったのはこんな場所でこんな網の張り方をして獲物がとれるのだろうかということでした。 塀スレスレのクモの巣に引っ掛かる虫なんて稀としか思えません。それとも虫の世界ではこれも理にかなっているのでしょうか。

 ずっと以前、アリの生態が気になってしばらく家の周りで観察を続けたことがありました。その結果、アリは夜遅い時間にも結構寒い季節でも活動していることが分かりましたが、こういう“勤務や残業”は指示なのか各々の判断なのか、またアリはどのように自分の棲みかに帰るのか等々は分かりませんでした。謎は増えるばかりだったのです。

 アリもクモも私たちの身近にいる昆虫です。しかし、私たちはその生態を殆ど知らないのではないでしょうか。 今回のことがあって初めて私はクモには網を造るものと造らないものがあること、クモの巣の縦糸は粘着性がないためにクモは巣を歩きまわれること等を知りましたが、同時にいや自分は自分のことを知っているだろうかという思いが湧きました。

 人は普段自分が何者であるかなどと思いもしません。しかし、人生で大切なことは自分を知ることではないでしょうか。生きるというのは自分が自分に疑問を発し自分自身を知るという訓練だと思いました。

「仏道をならふといふは、自己をならふなり、自己をならふといふは、自己をわするるなり」 ~道元禅師~

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