目指せホンモノ №155

平成24年8月19日

目指せホンモノ



 先月の坐禅会での正法眼蔵随聞記は巻三の「本当に内におさめた徳もないのに人からあがめられてはならない」というお話でした。これを読むと世のあり様は鎌倉時代も今と変わりがないがないということを痛感させられます。身を捨てた様子を見せてうわべを飾る人を見抜くことが難しいというのは、今の時代も全く同じではないでしょうか。

 道元禅師は「わが国の人は、真に内徳をさぐり知ることができず、表に見えるかたちだけで人をあがめるので、道心のない修行者はすぐさま悪い方へひっぱられ、仏道をさまたげる魔の手下になってしまう」と言われます。いかにも道心があるようにふるまう人を見ると、その人が本物の道心者であると信じ込んで逆に仏道をさまたげる魔の民になってしまうとおっしゃるのです。

 それでは、道元禅師はどういう人が真の道心者かと言えば「内は空しくして外は世の中の風に従う」人、つまりは心の中に自分に対する執着がなく、表面は一般の人と同じようにしていく人がそうだと言われるのです。心に自分に対する執着がないというのは名利を捨てきることでしょう。人には欲があります。名誉欲、物欲、金銭欲。それを捨てて普通に暮らす人こそ道心者だと言われるのです。

 本当の道心者になることが如何に難しいことかと思います。と、同時に本当の道心者を見分けることも難しいことだと思います。世の中はとかく口上手く声大きい方に流されがちです。それが真実であるかのように思い込んでしまうのでしょう。しかし、それが真実でなければ信じた人間は自らを誤った道に迷い込ませてしまうことになるのです。

 人間として生まれた有難さを思えば私たちは一人ひとりがホンモノ目指さなければなりません。と同時に、ニセモノを見破る眼力を養わなければなりません。骨董美術品を見分ける力を養わせる時にはホンモノしか見せないといいます。ホンモノを見ていると自然にホンモノとニセモノの違いが分かるようになるのだそうです。ホンモノにはホンモノの何かがあるのでしょう。
 人間のホンモノ、ニセモノはホンモノの人にしか分からないのかも知れません。とすれば、自分がホンモノになること、ホンモノを目指すことがその眼力を養う第一歩かもしれません。目指せホンモノ、歩もう真実の道。

「子ののたまわく、賢なるかな回や。一箪の食、一瓢の飲、陋巷に在り。人は其の憂いに堪えず…」~「論語」~

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