思ふ秋の日 №159


平成2410月 5


思ふ秋の日
   
  プレリュード ショパン静かに 聞こえ来て 眼差し遠く 思ふ秋の日
  透きとほる 風渡る庭 音もなし 光と影の 秋にこそなれ
 
 秋になりました。くっきりと地面に映った黒い影が日の光を一層際立たせます。風渡る静かな庭を前に懐かしい曲を聴いていると、自然に子どもの頃のことが思い出されます。父のこと、母のこと、故郷のこと、友達のこと。その時々には嬉しさや楽しさだけでなくつらいことも悔しいこともあったはずですが思い出すのは懐かしさばかりです。
 
 記憶の美化というのは人が生きていくための装置かも知れません。美化という装置が働くからこそ人は生きられるという気もします。つい先日、ある葬儀に伺った折、喪主であるご長男がお礼の挨拶で言葉を詰まらせながら母との思い出を話されましたが、亡き人との絆も記憶の美化と凝縮によって一層深まるのでしょう。
 
 そう考えていて、人間には皆さんに知って頂きたいもう一つの装置があることを思い出しました。それは私たちが霊的な存在であるということを意識するための装置なのです。人間は霊的存在なのですが、同時に肉体を持った物質的存在でもあります。 人間として過ごしている時はむしろこの物質的存在の方が前面に現れていることは言うまでもありません。
 
 しかし、年を経て肉体が衰えたり病気になったりすると霊的存在を意識する装置が働き始めるのです。年齢を重ねるに従って神仏に関心を抱くようになるのはそのためなのです。それは実に神によって作られた有難く不思議な装置と言ってよいでしょう。私たちが本来何者であるかということに気づくための装置なのですから。
 
 私たちはみな霊的な存在です。人間として過ごすのは修行の一環に過ぎません。この世の生を終えて帰るべきところは魂の世界、命の海なのです。いま私は思います。私が今まで積み重ねてきたことは永遠の修行者としての本来の自分を知り、さらにそれを深めていこうとするためであったのだと。



 仏道をならふといふは、自己をならふなり、自己をならふといふは、自己をわするるなり                        ~道元禅師~


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