このみちや… №163



平成24年10月18日

 このみちや…

 先日、降旗康男監督、高倉健さん主演の映画「あなたへ」を観てきました。下関がロケ地の一つになったこの映画、自分の骨を故郷の海に散骨してほしいという亡き妻の望みを叶えるために富山から平戸まで健さんが自動車で旅するロードムービーですが、私の関心は「散骨」でした。散骨が映画でどのように扱われているのか知りたかったのです。
 
 関心の的であった散骨に関して言えば、特段のことはありませんでした。元々、散骨というのは歴史的な風習ではありません。わが国では火葬が取り入れられたのちでも死体放棄、つまりは野ざらしという葬送法がありましたが、これは散骨ではありません。散骨というのは近年の「自然葬」という考えのなかで作られた新しい葬送と言えましょう。
 
 映画のなかでは健さん、倉島英二が船べりから妻洋子の骨を少しずつそっと海に放していましたが、思いを込めて、となれば少しずつ静かに海に、というのが妥当な仕方ということなのでしょう。その形がどうであれ、葬送は残されたものが亡き人を送る心が核心になります。故人の思いと残された者の思いが一つになってこそ意義を見いだせるのではないでしょうか。
 
 ところで、この映画で私は別の感銘を受けました。それは映画の主題、恐らくは降旗監督の意図するところが「人生は旅」という思いであったに違いないと思えたことです。旅の途中で出会う一人にビートたけし演ずる元国語教師、実は車上荒らしの男が出てきますが、この男が旅と放浪の違いは帰るところがあるかないかだと言い、己の心境を代弁するかのように、山頭火の「このみちをゆくよりほかない草のしげくも」という句を口にするのです。
 
 映画のラストシーンにやはり山頭火の「このみちやいくたりゆきしわれはけふゆく」という句が映し出されました。この句には「人は結局一人なんだ」という山頭火の旅の淋しさが込められているように思えてなりません。 映画の主人公、倉島英二と妻洋子もそれぞれの人生の旅で悲しく切ない別れをしなければなりませんでしたが、降旗監督はそれが人生の旅なんだと言いたかったのではないでしょうか。

大阪道頓堀みんなかへる家はあるゆふべのゆきき~山頭火~

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